千鶴子の歌謡日記

「無神論の根底にあるのは、生活の向上であり、諸科学の進歩がそのバックボーンになっている。確かに宗教上の奇蹟は、科学的に、合理的に現代人に信じ込ませることはできない。したがって、そのうえに構築されている教義も人々を説得することはできない。しかし、生活の向上を強力な背景として、成長してきた合理主義も、死だけは逃れることはできない。死を、合理的に、必然であると理解できても、死の恐怖を消し去ることはできない。死は常に他者の死である。なぜなら、自己の死は認識できないから。認識すべき自己が死ねば、自己の死のみならず、ありとあらゆるものを認識することはできない」
「常に、認識と感性とが、歩調を合わせるとは限らない。感性は、時として認識を凌駕し、とてつもない怪物になることもある。人間が感性を持ち続ける限り、死の恐怖と、克服する対象を持たない生活の単調さ、むなしさから抜け出すことはできず、その限りにおいて、宗教に延命の可能性がある」
と、彼は言う。
「その不安の唯一の解決方法は、人々の生が神と共にあり、神の定めるところにあると信じ込むこと。そして、神を信じれば、永遠の生命が得られると信じること」
 彼は最後にこう言った。
「エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』という本の中で、人々がいかに自由・・・つまり、独立して、自分以外の何物も信じずに生きること・・・を不安に思うかを分析した。ファシズムは二十世紀に生まれたんだよ君。芥川龍之介も『箴言集』のなかで、こう言っている。
「自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることはできない」
って。そういう弱い子羊がいる限り、宗教は有効だよ」ああ、神よ。そこで、ホアキン・プリエートの『La Novia』
のような歌が生まれる。

  いまのわたしは 神の御子への 愛にもまして
   今ここで とわに貴男を 
  愛し続けることのほか 今日という日に
   貴男を 愛す術を知らない
    ring the bell 貴男が鳴らした
    ring the bell わたしの心の 
    ring the bell 罪深い愛      
  ロザリオを 胸に抱いて
  イエスの前に ぬかずくわたし
   ああ 神よ あなたの目には
   なんと 罪深い わたしの愛でしょう

  思わせ振りが 飛び交うままに この上もなく