と思う。わたしは駅のプラットフォームの白線の外側で電車の来るのを茫然と待つ。軈て電車がプラットフォームに辷り込んできて、わたしの鼻先を掠めるようにして停まる。
「なぜ、わたしをレールの上に巻き込んでくれないのだろう」
 わたしは、暗々裏に消え去ることを望んでいるのだ。いや、生を選ぼうとしていないだけのことかもしれない。でも、こんな事じゃいけない。来るべき日の到来するまで、何とかして生きていなくては。嗚呼、はるか彼方から聞こえてくる。新たなる生命の胎動が。激しい凄寥と、曄く喜悦。不絶、孤独の山巓に立たされ、目もくらむような眩暈の連環。一弾指として、心安らかなる時はない。あるときは、目映いばかりの絳脣に見え、また、あるときは、とるにたらない一瞬だけの妍麗にも見える。でも、これがわたしの本性の滲漉。凄まじい破壊と創造、絶え間のない亀裂と縫合の末に、全身創痍に蔑まされて、必ずわたしという生命の、わたしというかけがえのない命の、確かな証跡を見出すだろう。その輸贏の決する日まで、自らの願望の桎梏と忸怩に耐え、豊穣に、強靭に生きるべしと、その新たな内なる生命の胎動が謳っている。それは、真に生きんとする者に与えられる生命の讃歌でなくして何であろう。肯定こそすべて。いかなる芸術的試論もこの結論に逢着する。たとえは、伊藤整の『芸術とは何か』のように。
 なんとなく、金子みすゞの『大漁』の心象とシンクロナイズするような。そこで、金子みすゞが自死した歌が生まれる。

 釣ったあなたを憎めない
釣られたあたしが悪いのよ
 どんなに どんなに
 いじめられても
 愛することしかできない
 網の中のあたし
釣ったあなたの大漁歌
釣られたあたしの恨み唄

殴るあなたが憎めない
ぶたれる自分を責めるだけ
 どれほど どれほど
 ひどい仕打ちも
 抱かれてしまえば忘れる
 抱かれ弱い女
殴るあなたはいかり船
ぶたれるあたしは難破船

たぶん子供はそのほうが
幸せなのかも知れないわ
 子供をとられて
 生きてゆけない
 泣き伏すことしかできない
 生んだだけの女
きっとあたしがいなければ
みんなが幸せ さようなら


五月十九日

 彼と鎌倉までドライブ。彼は、
「鎌倉に住んでいる友達に借りた本をかえすのだ」
と言って、吉田という人の家に行った。わたしも一緒。
「全く気にする必要はない」