真っ暗闇の世界。風物の形象が久遠の彼方に遠ざかり、わたしの叫喚はどこまでも広がり、わたしの視界は宇宙の那由多光年果ての闇にまで達する。ただ、愛さねばならない人の堅牢な手が、わたしの長い緑の黒髪に熱く感じられるだけ。底知れぬ、あらゆる感覚の解き放たれた奈落。天もなく地もない。上もなく、下もない一壺天。そして、わたしは仄かな焔を揺曳させている蝋燭の頂から流れ出る熱い蝋のように、極まりなく溶けてゆく。わたしの体は、徐々に輪郭を失い、滑らかな流線型を描いて、ひりつくような坩堝の中に注ぎ込まれる。熱い溜息と四肢の悶絶。わたしの体の中の炎が融け果てたわたしを、絶え間なく燃焼させ、わたしは少しずつ湮滅してゆく。官能と精神が快楽の絶顛まで攀じ登り終えたとき、最後の炎の揺蕩いとともに、わたしは消滅する。わたしの髪も、わたしの乳房も、わたしの双肩も、わたしの両頬も、わたしの腰も、わたしの両腕も、わたしの太腿も、なにもかもが陽の光にあたった雪女のように、無に帰する。いや、『般若波羅蜜多心経』の「空」にも「無」という言葉にすら値しないような虚になる。138億2千万年前のビッグバン直前のように、すべてが虚の一点に完全な無として収斂される。わたしは、いなくなる。・・・そんな恋愛がしたい。現実存在を超越し、わたしがわたしであることをやめるような恋愛が。でも、そんな恋愛が、この世に存在するだろうか?坂田山心中は昇汞水を飲んで天国で結ばれようとした至高の恋かも知れないが、女性の遺体は盗掘され、うつつに差し戻された。五所平之助監督の『天国に結ぶ恋』のようになったのだろうか。
 人間存在の本質は、可能態として実存することにある。だが、恋愛だけは別。人間はいかにしても、恋愛状態を選ぶことはできない。現存在としての人間が選ぶことのできるのは、有機的な他者としての友人だけ。恋人を選ぶことは実存としての人間にはできない。なぜなら、他者が恋人になりえるのは、恋愛関係に陥ったときのみであり、恋愛関係そのものは投企によって得られるものではないから。恋人の存在と恋愛関係とは、同一の時間性の中にある。恋人の存在は恋愛関係に先立つものでもなく、また、その逆でもない。したがって、『誘惑者の日記』のセーレン・キルケゴールが言うように、「恋愛にはヘーゲルの弁証法はない」のだ。