と言うわたしの声に立ち止って振り返った。彼は黙って手を差し伸べた。彼の肉の厚い木の皮のように堅そうな手が目の前に差し出された。わたしは、黒い薄手の木綿の手袋を纏った手を委ねた。彼がわたしの手を引き、わたしがそれに応じた。すると、わたしの体は綿のように軽々と浮き上がるようにして、急な勾配の上に持ち上げられた。少し手の甲が痛んだ。彼の足場が狭かったので、彼のうっすらと髭の生えた顎が、引き揚げられたわたしの眼前にあった。あのとき、わたしがほんの少しよろめいて、体を預ければ、彼はそれに乗じてわたしを抱きすくめることが出来たかも知れない。彼に鋼鉄の硬質な光沢に似た精神があろうとなかろうと、東京の乾燥した情愛交歓に萎え、登坂に多少疲憊し、皚皚とした斜面の美しさに呑まれていたわたしは、無性に彼の胸の内を憧れた。わたしは、アブノーマルなのだろうか。田舎に来た時だけしか思い起こさない彼に抱擁されたいと願うなんて。でも、きっと彼はわたしに気があると思う。これはわたしの直感。彼に言い寄られたらわたしは簡単に陥落するかもしれない。そこで、千家和也の『あなたにあげる』のような歌が生まれる。

  お前はもうすぐ
  とうのたつ年頃だからと
   優しさのつもりで
    待つなと叫んで
     船に乗ったあなた
   今度おかに上るのは
    季節が元に戻る頃
  ほんとに ほんとに
   わたしが好きならば
  待てとひとこと
   言ってほしかった

  お前の手紙で
  また未練つのらせるからと
   諦めのつもりで
    出すなと叫んで
     海に消えたあなた
   暗い過去のあることを
    わたしはみんな知っている
  ほんとに ほんとに
   わたしが好きならば
  書けとひとこと 
   言ってほしかった

  お前の住む町
  いつかしら来ていたけれども
   逢わないで行くのが
    ほんとの愛だと
     ひとに告げたあなた
   今度おかに戻るのは
    季節が二度も巡る頃
  ほんとに ほんとに
   わたしが好きならば
  来いとひとこと
   言ってほしかった