と宣う京都人や、ラファイエット夫人が仕えていたフランスの宮廷の貴族の会話は、彼にはまるで通じないだろう。彼は、言葉の持つ本来の意味しか解さないし、自分の見たものしか、自分の感じたことしか話さない。暗喩や隠喩は意味を持たないのだ。単純で素朴で正直で素直であるがままの男。彼はそんな人だ。わたしも、大学を卒業して暫くたって、人生に郷愁を覚えたときに、大自然のような人に憧れるかも知れない。わたしにとって忘れることのできないのは、一昨年の夏休みに彼と能生の海辺でたわむれた日のこと。彼の裸体は、鋼鉄のようだった。三島由紀夫の人工的な肉体とは似て非なるもの。
 わたしを軽々と抱き上げてしまいそうな膂力を秘めた太い腕、わたしのか細い息の根を圧し止めてしまいそうな分厚い胸、引き締まって殆ど半円に近いような弧を描いている臀部の線、黒い脛毛に覆われた太い灌木のような足。ああ、彼に精神があったら、人の愛を奪い、人に愛を押し付けようとするような鋼のような精神があったら、わたしはどんなに彼を愛すことだろうか。わたしを虐め、わたしを宥め、わたしを叱り、わたしを労わる精神があったら。でもそれは無理な話。彼の健全な笑顔は精神性不在の賜物なのだから。
 わたしは果林酒を呑んだ。葡萄酒よりも甘味で、イチゴの様な味がした。わたしはそれを随分飲んだ。したたかに酔って、炬燵の中に入ったままで、
「いつ気分が悪くなるだろう」
と気が気でなかったけれど、なんともなかった。わたしはかなり酩酊した。彼の十一になる弟が、
「顔がまっかだぜね」
と言ってわたしを揶揄した。わたしは、頬に手を当ててみた。お膳の上に出していた右手は、譬え様もなく冷やかに感じられ、炬燵の中に入れておいた左手は熱く感じられた。
 三時ごろ、彼が立ちあがって、
「伝説の沼を案内するわ」
と言った。裏山の杉林の中を縫って登りながら、昔話をした。河原で翡翠の原石のような岩を拾ったこと、平岩の野天温泉に行ったこと、姫川で泳いだこと、能生の海岸で海藻を採ったこと、美山で栗を拾ったこと、親不知で崖に上ったこと。
 途中に少し急勾配な登りがあった。彼は杉の枝に手をかけてやすやすと登ったが、わたしには怖くて出来そうになかった。彼は枯れた杉の梢を雪の上から踏みしだいて登りかけ、
「待って」