あらゆる経済活動の中で、拡大を続けているのは医療だ。衣食住はいずれも必要だが、限界がある。衣類はいくらあってもクローゼットを増やせば邪魔にはならないが、身は一つしかない。「食」は、高級食材を求めるほかに、金額を増やすことはできない。どんなにお金があっても胃袋は一つしかない。「住」は部屋数を増やし、別宅を求めれば、いくらでも支出額を増やすことはできる。しかし、身は一つしかない。住むこともできない家を求めても意味はない。
 衣食住がどれほど、充実しても、QOLが失われれば、すべてが灰燼に帰す。命あっての衣食住だ。衣食住に支払うお金には限界があるが、医療に支払うお金には限界がない。経済が拡大し、衣食住の支出が拡大しても、いずれ頭打ちになる。しかし、医療には上限がない。人の命を救う医療は、存在そのものが善だ。いかがわしいサービス業の存在そのものが、胡散臭く言われるのと対蹠的だ。社会的に善と評価される経済活動には歯止めがない。長寿社会とは医療社会と同義だ。膨大な高齢者を抱えた社会の巨額の医療コストを一体誰が支払うのだろう。
 わたしは、明日のことを考えないドン・ファンのように生きたい。そこで、いまいずみあきらの『フランシーヌの場合』のような歌が生まれる。

   あなたのジュアンは死にました
   明日の夕方 荼毘に付されます
   あなたを愛して死んだジュアン
   あなたに尽くして死んだジュアン
   そのこめかみに浮かんだ模様は
   仕合せすぎて流れた涙

   あなたのジュアンは言いました
   愛されないのが僕の仕合せと
   あなたに背かれ死んだジュアン
   あなたに騙され死んだジュアン
   封もされずに置かれた手紙は
   あなたにあてた感謝の言葉

   あなたのジュアンが死ぬ前に
   あなたの写真を貼ったアルバムを
   こよなく愛したあなたのもとへ
   すべてを包んで送りました
   日のよく当たる小高いお墓に
   埋めてジュアンを偲んで欲しい

   この際わたしのことなんか
   どうでもいいのよ 知られたくないわ
   あなたを恨んで生きてきたの
   あなたを憎んで生きてきたの
   ただそうとだけ教えてあげるわ
   ジュアンが荼毘に付された今は


十一月二十六日