ということは知っていた方が知らないよりもいいかも知れない。不味い物は、不味いなりに、おいしいものを引き立てる役割を持っているのだから。
男の人も同じ。でも男の人は詩と違って、味わったり、捨てたりするのに煩雑さが伴う。それだけ、男の人を味わうのは厄介だ。でも、わたしは、『クレーヴの奥方』を書きあげた、ラファイエット夫人のように、
「恋愛は面倒なもの」
として十八歳の若さで、恋愛の甘美な夢を断ち切ることはできない。ラファイエット夫人のように知的で、怜悧な女性にとって恋愛は、エルヴィン・シュレーディンガーの猫の生死のように不確かで、エントリーシートの作成のように面倒臭いものであったかもしれない。
一人の男の人に秘かに思いを寄せ、それとなく感づかせることをしても、必ずその男の人の心を得られるとは限らない。その男の人の心を得られればいいが、得られないとわかれば、思いを寄せただけ精神的な打撃を被り、その男の人を完全に忘れるまでの苦痛を味わわなくてはならない。ラファイエット夫人は、そういう心理的な葛藤に耐えられなかったのだともいえる。
それでもドン・ファン・テノーリオのような女も、井原西鶴の『好色一代女』のような女もいる。多情で、倦まず弛まず男を求める女。彼女らは、振られるかも知れないというリスクが好きなのかもしれない。いわば、トーマス・マンの『ある詐欺師の回想』のフェリクス・クルルのようにリスク・ラヴァーだ。わたしは、リスクを常に回避するサラリー・ウーマンのようにリスク・アバーターだ。
宝くじを買い続ける人と、一度も買わない人がいる。宝くじに当選したければ、全部買い占めればいい。でも、買い占めた代金は当選金を下回るのは分かり切ったことだ。買わない人はそのことを考えている。買う人はそれでも、はずれ券を買うのは他の人で、自分ではないと思っている。まさに、ドン・ファンだ。結果を分かっていても愚行を繰り返す。丁度、山の頂上まで岩を押し上げることが出来ないと分っていても、神に科された刑罰を永遠に繰り返す『ギリシャ神話』のシーシュポスのように。
男の人も同じ。でも男の人は詩と違って、味わったり、捨てたりするのに煩雑さが伴う。それだけ、男の人を味わうのは厄介だ。でも、わたしは、『クレーヴの奥方』を書きあげた、ラファイエット夫人のように、
「恋愛は面倒なもの」
として十八歳の若さで、恋愛の甘美な夢を断ち切ることはできない。ラファイエット夫人のように知的で、怜悧な女性にとって恋愛は、エルヴィン・シュレーディンガーの猫の生死のように不確かで、エントリーシートの作成のように面倒臭いものであったかもしれない。
一人の男の人に秘かに思いを寄せ、それとなく感づかせることをしても、必ずその男の人の心を得られるとは限らない。その男の人の心を得られればいいが、得られないとわかれば、思いを寄せただけ精神的な打撃を被り、その男の人を完全に忘れるまでの苦痛を味わわなくてはならない。ラファイエット夫人は、そういう心理的な葛藤に耐えられなかったのだともいえる。
それでもドン・ファン・テノーリオのような女も、井原西鶴の『好色一代女』のような女もいる。多情で、倦まず弛まず男を求める女。彼女らは、振られるかも知れないというリスクが好きなのかもしれない。いわば、トーマス・マンの『ある詐欺師の回想』のフェリクス・クルルのようにリスク・ラヴァーだ。わたしは、リスクを常に回避するサラリー・ウーマンのようにリスク・アバーターだ。
宝くじを買い続ける人と、一度も買わない人がいる。宝くじに当選したければ、全部買い占めればいい。でも、買い占めた代金は当選金を下回るのは分かり切ったことだ。買わない人はそのことを考えている。買う人はそれでも、はずれ券を買うのは他の人で、自分ではないと思っている。まさに、ドン・ファンだ。結果を分かっていても愚行を繰り返す。丁度、山の頂上まで岩を押し上げることが出来ないと分っていても、神に科された刑罰を永遠に繰り返す『ギリシャ神話』のシーシュポスのように。