あなたの宣う自由って、なんて高尚なんでしょう。自分では決意せず、女のわたしの決意を待っている。ちょうど、ジャン・ポール・サルトルが、
「祖国を守るために兵士になるべきか、それとも親孝行をするために家にとどまるべきか」
を相談に来た先出のフランスの若い学生に対して、
「君は自由だ、選びたまえ」
といったのと同じように、あなたは、
「君は自由だ、僕を選ぶのも、選ばないのも」
とわたしを諭す。
 あなたはわたしが、どちらかを選ぶことを待っている。でも、それをさやかには言わず、自由という言葉でカムフラージュしている。なんと狡猾なのだろう。あなたは、わたしに、
「あなたを愛している」
と言わせるつもりなのね。自分では何もせずに。そして、そういうことを促すように、
「もし、僕が本気で『僕は君を愛している』と言ってしまったら、それは、その言葉によって君の自由を何らかの形で束縛することになるだろう。君が本当に僕に愛されることの方が自由であると思うのなら、僕は君を愛そう。君が僕に愛されないことによって魂の不自由を感じるのなら、僕は君を愛そう。すべてが君の自由だ。でも、今の僕には、それを知る何の手立てもない。だから、僕は、どちらを選ぶこともできない」
とわたしに仄めかす。
 でも、残念ね。あなたがいくら秀才ぶりを発揮して、石橋をハンマーで叩いて渡り、自分は絶対に傷つくまいとしていても、わたしは絶対に、自分の方から、
「あなたを愛しています」
なんて言わないから。
 わたしは、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』のように愛するよりは、愛されたい女なの。わたしが告白しないことで、あなたは宙ぶらりんの状態に苦しむかもしれない。でも、それは仕方のないこと。一対一で選ぶのは男の方なのだから。『かぐや姫』のように言い寄る男が複数いても、選ぶのはかぐや姫でなくて、男の方なのだから。
 さあ、ピエトロ・ジェルミ監督の『刑事』の中のアスンティナ(クラウディア・カルディナーレ)のように、
「あなたを死ぬほど愛している」
とおっしゃい。そう言えば、わたしもそれを拒絶するか、受け入れるかを答えてあげるから。ただ、あなたは怖くて言えないのね。わたしにすげなく拒まれることが。そこで喜多條忠の『神田川』のような歌が生まれる。

  わたしと約束した一年は
  先週火曜に終わっている