千鶴子の歌謡日記

 わたしが軽井沢に行かなかったことは、よかったことに違いない。ひとつは、彼が少しでもわたしのことを想っているのなら、彼の想いは一層強まるはずであろうから。もう一つは、彼の勧誘にもかかわらず、わたしが行かなかったことは、彼に対してより一層わたしを鮮烈に印象付けることになるから。初期の恋愛においては、未知や謎は、しばしば恋愛を推進させる動機となる。なかにし礼の『知りすぎたのね』で「恋は終わりね 秘密がないから」とロス・インディオスが歌っている。恋愛の次の段階に発展しなかった場合、その恋愛は、どちらか一方の、
「今、何考えているの?」
と言う語りかけをもって終焉を迎える。
 ああ、でも、あの人は何をするのだろうか。女の子に囲まれて、楽しそうな語らいにだらしなく笑うのだろうか。軽井沢の天の川は、手を差し出せば届きそうなほど近い。さぞ、ロマンティックな夜になるだろう。誰かがアコースティック・ギターを持って行っているに違いない。ギターは、語らう内容を持っていない男女にとって、ほろ酔いを演出する最大の便宜品になる。吉岡治作詞の『真夜中のギター』でも千賀かほる風に歌っているかもしれない。
 でも苦悩を愛する人もいる。安樂に暮らせる方法があっても、アフガニスタンのカカ・ムラト=中村哲やコルカタのカトリック教会の修道女=マザー・テレサや密林の聖者=アルベルト・シュヴァイツァーやクリミアの天使=フローレンス・ナイチンゲールのように艱難を選ぶ人がいる。しかし、その人にとっても、矢張り苦悩は苦痛であるに違いないし、艱難は辛苦であるに相違ない。なによりも、同じ志を持たない身内のひとは、大変に違いない。そこで、さだまさしの『ひと粒の麦 ~Moment~』のような歌が生まれる。

  「好きだ 君」 
  そう言ったきりのままペシャワアル
  あすを掘る日々
  掘ったらそれで終わりじゃない
  いつまで わたし 待たされる
  どこまで わたしは待てばいい
  貧しい人を助けても
  ひとりのおんな待たせて なんで
  だから お願い
  あしたの井戸掘り 最後にしてね
  疲れて かれ果て 待ちくたびれって
  あす帰ってとせがむわがまま
  せめて たったひとときだけ 夢を
  愛して 愛され 愛し合いたい
  この手であなたを抱きしめたいのいま