千鶴子の歌謡日記

 わたしは、テニスコートの隅にある蛇口で手を洗うことを思い立った。わたしは、金網の入り口のところに来ると、テニスコートの中に入って、蛇口をひねった。案の定、井阪さんもついてきた。彼も仕方なく手を洗うらしく、ラケットを芝生の上において、タオルを首にかけ、わたしの傍らに立った。わたしは、白井さんのやって来るのを上目遣いに見ながら、ちょうどいいタイミングで、水を出しっぱなしにしたままで、蛇口の前から離れた。井阪さんが、蛇口の前に立ち、水の中に手を入れるのを見て、すぐ金網の外に出た。タイミング良く、白井さんが来るところだった。彼と目のあったとき、彼の切り出す言葉は言う前から分かっていた。
「ノート、届いた?」
「ええ」
「ありがとうって言わなければいけないね」
 なんて、おかしなお礼の言い方なのだろう。でも、間近で、彼の汗ににおいを嗅ぐことのできたのは、この上もない幸福だった。
「常識的には、僕は、君にお礼をしなければならないんだけど、コーラで我慢する?」
 わたしはもちろん、コーラで我慢した。
 着替えてから、三人でテニス・クラブの喫茶店に入った。来なければいいと思ったのに、井阪さんも一緒だった。白井さんが二人だけで話をしたいと思っていたかどうかは分からない。喫茶店で、井阪さんが合宿の話をした。
「7月中旬ごろから下旬にかけてだ」
と言う。参加するのは、十名前後。二面借りる予定なので、十六人まで大丈夫だそうだ。
「是非来るように」
と井阪さんに言われた。わたしは、明後日までに電話で井阪さんに連絡すると約束した。
 折角、白井さんと一緒になれたのに、井阪さんがいたおかげで、つまらないものになってしまった。帰る時、二人がわたしのコーラ代を、
「自分が払う」
と言い張った。わたしはすぐに外に出たので、どっちが払ったのか、わからなかった。
 駅に向かう途中で、彼が井阪さんが自販機でハイライトを買っている間に、わたしにこう言った。
「ぼくも合宿に行くから君もおいでよ、川村さんと一緒に」
 その言葉は、わたしを有頂天にさせた。合宿に行けば、練習の終わった後、彼と二人きりで軽井沢を散歩できるかもしれない。そして、その時、彼が愛の告白をするかも知れない。わたしは、彼の涼しげな瞳を見ながら、合宿に行こうと決心した。そこで、小田和正の『緑の丘』のような歌が生まれる。