わたしは、思わず立ち止まった。すべての懊悩のタネは、井阪という男の蒔いた種だった。わたしは、井阪と言う男をにらみつけてやろうかと思った。でも、彼の顔を目の中に入れて、不愉快な気持ちになるつもりはなかった。わたしは、再び歩き出した。あの人が、追いついてこられるように、ゆっくりと歩を進めた。井阪さんは、先刻わたしが立ち止まったことで、何か気付いたらしかった。わたしは、小さな声で、気のないように、
「ええ」
と答えた。
「ああ、そう。僕は、まだ君の手許にないんじゃないかと思ったんだ」
井阪さんがバツの悪い顔をしていることは、見るまでもなく、容易に想像できた。彼は、なおもしつこくこう尋ねてきた。
「いつ君の手に渡ったの」
「何で、そんなこと聞くんですか」
「・・・いや、べつに。ただ、六月十四日以前かどうか知りたいんだ」
「どうして」
「理由はないけど・・・」
「前だったと思います」
「じゃあ、その時、ノートの間に何か紙切れが入っていなかった?」
なんて鈍感な男なのだろう。
「いいえ」
わたしは嘘をついた。本当のことを言った方が、よかったかどうかは分からない。その時、わたしが川村さんにあげたといえば、彼は、もうわたしにしつこく付きまとうことはしないだろう。でも、もしそう言ったら、そのとき気まずいことになっていたかも知れない。井阪さんは、川村さんが、勝手にノートの間から抜き取ったと思うだろう。だから、彼はわたしにまだ脈があると思うだろう。彼を諦めさせないと、白井さんとの間の障害になるかもしれない。
わたしは早く井阪さんから離れたかった。白井さんと二人きりで話をしたかった。白井さんは十メートルほど後ろを歩いていた。自分がプレーしていたコート半面に一人でブラシをかけていたからわたしと井阪さんより遅れたのだ。
「ええ」
と答えた。
「ああ、そう。僕は、まだ君の手許にないんじゃないかと思ったんだ」
井阪さんがバツの悪い顔をしていることは、見るまでもなく、容易に想像できた。彼は、なおもしつこくこう尋ねてきた。
「いつ君の手に渡ったの」
「何で、そんなこと聞くんですか」
「・・・いや、べつに。ただ、六月十四日以前かどうか知りたいんだ」
「どうして」
「理由はないけど・・・」
「前だったと思います」
「じゃあ、その時、ノートの間に何か紙切れが入っていなかった?」
なんて鈍感な男なのだろう。
「いいえ」
わたしは嘘をついた。本当のことを言った方が、よかったかどうかは分からない。その時、わたしが川村さんにあげたといえば、彼は、もうわたしにしつこく付きまとうことはしないだろう。でも、もしそう言ったら、そのとき気まずいことになっていたかも知れない。井阪さんは、川村さんが、勝手にノートの間から抜き取ったと思うだろう。だから、彼はわたしにまだ脈があると思うだろう。彼を諦めさせないと、白井さんとの間の障害になるかもしれない。
わたしは早く井阪さんから離れたかった。白井さんと二人きりで話をしたかった。白井さんは十メートルほど後ろを歩いていた。自分がプレーしていたコート半面に一人でブラシをかけていたからわたしと井阪さんより遅れたのだ。


