千鶴子の歌謡日記

と言ってきた。いつかやったように、あの人が一人になり、わたしと井阪さんと二人で打ちあった。わたしは、彼の視線を追った。井阪さんがネットにボールをひっかけて、三個あった手持ちのボールがなくなったとき、呆然として待っている彼の視線を見てみた。でも、彼はわたしの方に視線を向けない。彼の視線は、井阪さんの上にあり、隣のコートのダブルスのゲームに向けられていた。そこに、何の不自然さも感じられなかった。彼がわたしの方に視線を向けないことに、何の不自然さもなかった。
 彼はやはり、上野の美術館に行かなかったのだ。もし、彼が上野の美術館に行き、わたしを待ち、そしてわたしにすっぽかされたのなら、わたしの方を見る視線に何らかの意味が込められるはず。わたしがサービスをするとき、わたしのトスをチラリとみて、すぐ構える。彼の眼中にはテニスボールしかない。わたしの方角に確かに視線は向けられているが、彼の目は、わたしにではなく、テニスボールの方に向けられていた。
 彼が、上野の美術館に行かなかったことはどうやら確実。そして、彼がわたしに電話を掛けてこなかったことも確か。この二つの確実性は、しかし、互いに矛盾している。わたしは、わざと大きくアウトしそうな返球をした。彼は、必死にジャンプする。わたしは、わざとサイドラインの外に打つ。彼は、懸命に返球する。フォアサイドとバックサイドを交互に打った。それでも彼は、わたしの方を見ることなく、淡々とラリーを続ける。彼には、ボールをヒットする以外の何の反応もなかった。 
 わたしの矛盾は、練習を終えて、更衣室に向かう間に闡明された。金網の外の狭い道をロッカーに向かって歩いていくわたしを、井阪さんが追いかけてきて、こう言った。
「この間、彼、練習に出られなくってね。ここで君のノートを返す様にと彼に頼まれたんだよ。だけど君も来なかったんで、川村さんに渡したんだけど、君の手に渡ったかな」