「時々好きになるのも、時々嫌いになるのも自由だ」
と言う。あなたの言葉を借りれば、ジャン・ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールが創造した、
「会いたいときに会い、会いたくないときには会わない」
という契約結婚のように。
だからわたしは、わたしがあなたを好きになり、愛する自由を得るためには、わたし自身で窓枠にガラスを入れ、しかもガラス窓の内側に入らなければならない。あなたを嫌いになる時は、その逆(VICE VERSA)。そうやってあなたはその作業の全てをわたしにやらせたいのね。あなたの言う自由とはそのこと。
あなたの論法で行けば、あなたがわたしに、
「愛している」
ということは、その言葉で何らかの形で、わたしを束縛することになるから、あなたは決して語らない。要するに、あなたは、自由という大義名分を利用して、わたしにあなたを愛しているか、愛していないかを言わせたいのね。卑怯な人!臆病な人!女々しい人!男らしくない人!
あなたには全く意思がない。『方法序説』のルネ・デカルトのように、多くの感受性の強い哲学者のように、あなたは傷つくことをこの上もなく畏怖して、この世の中の舞台の上で、役者であるよりは観客でありたいと思うのね。あなたの思い通り、あなたがわたしに対して、一切の意思表示をせず、わたしの演技だけで出来事が進行すれば、あなたは全く傷つくことなく、無疵のまま、昔のあなたに戻ることができる。
あなたがわたしに好意を持っているのは自明のこと。そして、わたしがその好意に応じていることも明瞭なこと。でも、好意と愛とは別。あなたは過去の経験からか、よくそのことをご存じでいらっしゃる。そして傷つかないためには、どうしたら良いかということも弁えていらっしゃる。
あなたが求めているのはわたしの愛の告白。あなたが我慢しているのはわたしへの愛の告白。あなたがわたしに愛を告白できないのは、もしわたしがその愛を受け入れなかったらば、自分が痛手を負うから。だからあなたは、確実な保証が得られない限り、心情を吐露することはしない。そして、あなたは、何とかして、わたしにあなたへの好意を披歴させようとする。その小道具として、あなたは自由を用意した。そうやって、あなたは、ガラスのないガラス窓をわたしの方に向けているだけ。
と言う。あなたの言葉を借りれば、ジャン・ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールが創造した、
「会いたいときに会い、会いたくないときには会わない」
という契約結婚のように。
だからわたしは、わたしがあなたを好きになり、愛する自由を得るためには、わたし自身で窓枠にガラスを入れ、しかもガラス窓の内側に入らなければならない。あなたを嫌いになる時は、その逆(VICE VERSA)。そうやってあなたはその作業の全てをわたしにやらせたいのね。あなたの言う自由とはそのこと。
あなたの論法で行けば、あなたがわたしに、
「愛している」
ということは、その言葉で何らかの形で、わたしを束縛することになるから、あなたは決して語らない。要するに、あなたは、自由という大義名分を利用して、わたしにあなたを愛しているか、愛していないかを言わせたいのね。卑怯な人!臆病な人!女々しい人!男らしくない人!
あなたには全く意思がない。『方法序説』のルネ・デカルトのように、多くの感受性の強い哲学者のように、あなたは傷つくことをこの上もなく畏怖して、この世の中の舞台の上で、役者であるよりは観客でありたいと思うのね。あなたの思い通り、あなたがわたしに対して、一切の意思表示をせず、わたしの演技だけで出来事が進行すれば、あなたは全く傷つくことなく、無疵のまま、昔のあなたに戻ることができる。
あなたがわたしに好意を持っているのは自明のこと。そして、わたしがその好意に応じていることも明瞭なこと。でも、好意と愛とは別。あなたは過去の経験からか、よくそのことをご存じでいらっしゃる。そして傷つかないためには、どうしたら良いかということも弁えていらっしゃる。
あなたが求めているのはわたしの愛の告白。あなたが我慢しているのはわたしへの愛の告白。あなたがわたしに愛を告白できないのは、もしわたしがその愛を受け入れなかったらば、自分が痛手を負うから。だからあなたは、確実な保証が得られない限り、心情を吐露することはしない。そして、あなたは、何とかして、わたしにあなたへの好意を披歴させようとする。その小道具として、あなたは自由を用意した。そうやって、あなたは、ガラスのないガラス窓をわたしの方に向けているだけ。