千鶴子の歌謡日記

「ノートを貸してくれてありがとう」
というメモ書きをしなかったことが、彼のわたしに仕掛けた罠だということに気付いていない。だから、こんなノー天気なセリフが吐けるのだ。
「そう?・・・じゃ・・・ほんとにいいの?もらうわ、ありがとう、わたし、ゴヤとベラスケス、大すきなの」
 完全にわたしの読心術はくるっていた。
「白井さんと一緒に行けるから貰う」
と言う代わりに、ぬけぬけと、
「ゴヤとベラスケスが好きだから行く」
とも言えること、そして彼女がクラウンを通して、白井さんとかなりの面識を持っていたことを計算の中に入れるのを忘れていた。わたしは、腹立ちまぎれに、意地の悪い質問をしてみた。
「ゴヤやベラスケスのどこが好きなの?」
「そうね」
と彼女は思い巡らせるような顔をして見せたけれど、内心は困っているのに違いない。ゴヤとベラスケスの絵のタイトルなど、彼女が知っているとは思えない。彼女は、顔はにこやかに、心は虚偽に満ちて、こう答えた。
「別に、取り立てて好きと言うところはないけれど・・・」
 わたしは、尋問するのをやめて、彼女に栞の様なスペイン絵画展の入場券を手渡した。そこで、一青窈の『栞』のような歌が生まれる。

  名も知らぬ 花のしをりが
  あなたと読んだ 詩の間から
   時のヴェールの 隙間を縫って
    ほのかなかをりを 漂わせます

  何も言わず 花のしをりを
  恥ずかしそうに 手渡すあなたの
   憂いを秘めた あの微笑みが
    淋しいかをりに 甦ります
      振り子時計の 錆び付いた
      長い針を 左に回し
      戻らぬ時を 恨んでみても
      時を突然 刻み出す
      振り子時計が 吹き抜けの
      想い出詩集に 空しく響く

  あなたがくれた 花のしをりは
  白い頁に 挟んでおいて
   またいつの日か 知らずに見つけ
    優しいかをりを 想い出します
      花の時計の かたくなな
      遠い時を 昔に戻し
      幼い愛を 呼び戻しても
      時を日影に 追いつめる
      花の時計が 草原の
      想い出詩集に 散らばり落ちる