わたしがあなたの申し出を拒否しようと、約束を破棄しようと、
「それは君の勝手だ」
とのたまう。
「君が自由であることが、僕の願いだ」
ともあなたは仰る。まるで、終わりと始めが繋がっているビデオテープのように、あなたはいつもそう言う。
 でも、ごめんなさい。わたしは、少しも自由ではないの。あなたはガラスのないガラス窓になって、頻繁に、
「いつでも、出入りは自由だ」
と言い、わたしがあなたの中にいるときでも、外にいるときでも、恰もそこに透明なガラスが入っているかのごとくに言葉を弄ぶ。だけど、あなたは風が吹いた時や、雨が降った時のことを考えるのを忘れている。そして、あなたは、
「君がガラスをはめ込むことも自由だ」
と言う。だけど、あなたはあなた自身でガラスをはめ込むことはしない。確かに、わたしが自分でガラスをはめることは、わたしの自由を行使することかもしれない。でも、わたしがガラスを入れている間、その時のわたしはガラスを入れるという行為に束縛される。そこで三善英史の『雨』のような歌が生まれる。

   絹のような雨がしとしとと
    恋の街角をヴェールで包む
   ぽつんぽつんと滴の音
    それにひとり身は悩まされる
      雨よ 潤いの天使達
      雨よ 慰めの天の使い
      お前はわたしの友達
      お前はわたしの恋人
   幾年となく渇き切ったままの
    このわたしの心を
    その熱い涙で潤しておくれ

   音も立てずに雨がひっそりと
    恋の雨傘をヴェールでおおう
   暗い静かな雨の巷
    それにひとり身は胸を焦がす
      雨よ 秘めやかな舞子達
      雨よ あでやかな踊子達
      お前はわたしの友達
      お前はわたしの恋人
   今人知れず泣き寝入ったままの
    この私の瞼を
    その淡い涙で口づけておくれ
      雨よ 潤いの天使達
      雨よ 慰めの天の使い
      お前はわたしの友達
      お前はわたしの恋人
   幾晩となく一人きりのままの
    このわたしの体を
    その熱い涙で暖めておくれ

 つまり、あなたは、
「君が僕を好きになるのも、嫌いになるのも自由だ」
と言う。そして、
「君が、そのどちらでもないようにするのも自由だ」
と言う。