授業が始まってから五分ぐらいして、川村さんが息を切らしながら、入ってきた。民法Ⅱの教室は、出入り口が前の方にしかないので、ドアーがあいて彼女が入ってくると、教室中の学生の視線が一斉に彼女の上に集中した。教師は、そんなことは無視して、話し続ける。彼女は、入って来てもすぐには席につかず、座席を見渡していた。わたしを探しているのだ。彼女の視線が教室のほぼ中央にいるわたしをとらえたとき、彼女は小さく手を振って、わたしが座っている方に小走りにやってきた。彼女はわたしの隣に腰かけると、ふうっと大きく息を吐いて、
「遅れて、ごめんなさい」
と言って、赤いトートバッグの中から、わたしの民法Ⅱのノートを取り出した。
「白井さんが、ありがとって言ってたわ」
わたしは茫然とした。わたしが一週間前に、食堂から図書館、図書館から食堂、食堂から生協の書籍部まで、あわただしく歩き回った苦労と、夜かかって来る電話の音にときめいた胸の鼓動は、まったくの徒労に終わってしまったのだ。わたしは、いったい、何のためにこの一週間、彼に会うまいと逃げまわったのだろう。
この時ほど、川村さんをいまいましく思ったことはない。彼女は、多分テニスコートであの人から話しかけられたのだ。彼女は、何もしないのに、あの人に話しかけてもらったのだ。川村さんは、ノートを借りた経緯を、彼から聞いたかもしれない。わたしは、胸の動揺を気取られまいとして、いたって平静を装ってノートを受け取った。誰にも、この恋心を知られたくない。もしわたしが彼にふられたとき、わたしがいくら主観的にふられたのではないという理由をこじつけても、だれかほかのひとが、わたしの彼に対する行為を知っていたら、客観的には、やはりわたしがふられたことになるから。わたしは、どんなことがあっても、恋愛の敗北者にはなりたくない。失恋はもうたくさん。あんなみじめさは、もうこりごり。
わたしは、心の動きを彼女に悟られないようにノートを穏やかに開いた。その時までレポート用紙に書いたことは、あとでノートに写すことにして、先週の終わりのところを開いてみた。するとそこに、栞のようなものが挟んであった。全体がグリーン系の色彩で統一された細長い紙片に、白くくりぬかれた活字で、
「スペイン絵画展」
と印刷されてあった。裏を返すと、
「遅れて、ごめんなさい」
と言って、赤いトートバッグの中から、わたしの民法Ⅱのノートを取り出した。
「白井さんが、ありがとって言ってたわ」
わたしは茫然とした。わたしが一週間前に、食堂から図書館、図書館から食堂、食堂から生協の書籍部まで、あわただしく歩き回った苦労と、夜かかって来る電話の音にときめいた胸の鼓動は、まったくの徒労に終わってしまったのだ。わたしは、いったい、何のためにこの一週間、彼に会うまいと逃げまわったのだろう。
この時ほど、川村さんをいまいましく思ったことはない。彼女は、多分テニスコートであの人から話しかけられたのだ。彼女は、何もしないのに、あの人に話しかけてもらったのだ。川村さんは、ノートを借りた経緯を、彼から聞いたかもしれない。わたしは、胸の動揺を気取られまいとして、いたって平静を装ってノートを受け取った。誰にも、この恋心を知られたくない。もしわたしが彼にふられたとき、わたしがいくら主観的にふられたのではないという理由をこじつけても、だれかほかのひとが、わたしの彼に対する行為を知っていたら、客観的には、やはりわたしがふられたことになるから。わたしは、どんなことがあっても、恋愛の敗北者にはなりたくない。失恋はもうたくさん。あんなみじめさは、もうこりごり。
わたしは、心の動きを彼女に悟られないようにノートを穏やかに開いた。その時までレポート用紙に書いたことは、あとでノートに写すことにして、先週の終わりのところを開いてみた。するとそこに、栞のようなものが挟んであった。全体がグリーン系の色彩で統一された細長い紙片に、白くくりぬかれた活字で、
「スペイン絵画展」
と印刷されてあった。裏を返すと、


