わたしは振り返った。その男は、うつむいて、わたしが手にしていた本を広げて、ページを送っていた。黒々とした眉が、長い睫毛と重なり、高い鼻の先が、唇を隠していた。でも、わたしには、その人が誰であるか、すぐわかった。わたしは、黒々とし眉の、長い睫毛の、高く毅然とした鼻の、美しさに、思わず息を呑んだ。わたしの胸は、早鐘の様に不整に脈打った。わたしは言葉を忘れていた。わたしが、その本の背に手を当てると、彼の長い睫毛があわただしく動き、まろやかな唇が微かな笑いを示した。彼は少し不意をつかれたような顔をして、うつむいたまま、わたしの方を射るような眼差しでみた。
「ぼくがいれてやるよ」
闊達な、しかし、どことなく愁いを秘めた声が返ってきた。とっさにわたしは、民法Ⅱのノートのことを、どうやって切り出そうかと逡巡した。彼は、わたしが同じ先生の民法Ⅱを取っていることを多分知らない。わたしは自分のノートを貸すために、そのことを第一に言わなくてはならなかった。でも、とうやって?
「つぎは、なんですか?」
「授業?社会主義経済論」
「今日は、お昼からですか」
「そうだよ」
そこで、会話は途切れた。彼は、本を一番上から二段目の書棚に戻した。彼は、自分の方から、民法Ⅱの講義が二時間目にあるということを話しだそうとはしなかった。でも、わたしは、どうしても彼の方から、そのことを言わせなくてはならなかった。
「いいですね。お昼からなんて。朝おうちでゆっくりできて」
とどぎまぎして言った。
「うん、まあね」
わたしは少し焦った。彼が言い出さないのは、何か理由があるからかもしれないと思った。それでも、わたしは、彼にノートを貸したかった。
「今日は、三時間目だけですか?」
「今日のところはね」
彼は、わたしがついてくるのを確かめながら、出口に向かって歩き始めた。
「じゃあ、ほんとは?・・・」
とわたしが言いかけた時、
「何でそんなこと訊くの」
と彼が水をさした。わたしは言葉に詰まった。足も止まった。
「いいえ、べつに」
わたしと彼は、書籍部から外に出た。わたしは、浅黄色のリノリウムの床ばかりを見ていた。わたしは正直に全部話そうかと思った。川村さんに聞いて、
「民法Ⅱをあなたがとっていることを知っている」
ということ。そして、
「ノートを貸してあげたい」
「ぼくがいれてやるよ」
闊達な、しかし、どことなく愁いを秘めた声が返ってきた。とっさにわたしは、民法Ⅱのノートのことを、どうやって切り出そうかと逡巡した。彼は、わたしが同じ先生の民法Ⅱを取っていることを多分知らない。わたしは自分のノートを貸すために、そのことを第一に言わなくてはならなかった。でも、とうやって?
「つぎは、なんですか?」
「授業?社会主義経済論」
「今日は、お昼からですか」
「そうだよ」
そこで、会話は途切れた。彼は、本を一番上から二段目の書棚に戻した。彼は、自分の方から、民法Ⅱの講義が二時間目にあるということを話しだそうとはしなかった。でも、わたしは、どうしても彼の方から、そのことを言わせなくてはならなかった。
「いいですね。お昼からなんて。朝おうちでゆっくりできて」
とどぎまぎして言った。
「うん、まあね」
わたしは少し焦った。彼が言い出さないのは、何か理由があるからかもしれないと思った。それでも、わたしは、彼にノートを貸したかった。
「今日は、三時間目だけですか?」
「今日のところはね」
彼は、わたしがついてくるのを確かめながら、出口に向かって歩き始めた。
「じゃあ、ほんとは?・・・」
とわたしが言いかけた時、
「何でそんなこと訊くの」
と彼が水をさした。わたしは言葉に詰まった。足も止まった。
「いいえ、べつに」
わたしと彼は、書籍部から外に出た。わたしは、浅黄色のリノリウムの床ばかりを見ていた。わたしは正直に全部話そうかと思った。川村さんに聞いて、
「民法Ⅱをあなたがとっていることを知っている」
ということ。そして、
「ノートを貸してあげたい」


