やがて彼は、手にしていた雑誌を書架に戻して、出口の方に体を向けた。その時、わたしは通路の中央の方に、少し体を移動させた。通路が狭くなれば、彼はわたしの体に触れざるを得ない。もし、彼がわたしに気付かなければ、彼がわたしのからだに触れた時に、本をわざと落としてみようと思った。
彼は、わたしの方に歩き始めた。わたしの手は、胸の苦しさに、極度の緊張のために、かすかに震えた。彼は、まだ気付かなかった。わたしは彼の方を見ることができずに、何を書いてあるのか分からない活字の上に目を据えていた。わたしの背後を、彼の足音が遠ざかっていった。わたしは、彼の後姿を見ることができなかった。苦い後悔の味が、わたしの心の中を占領した。二度とないかもしれない絶好の好機をわたしは逃したのだ。なぜ彼は、わたしに気付かなかったのだろう。それほどわたしは、目立たない女なのだろうか。本当に彼は、わたしに気付かなかったのだろうか。ひょっとしたら、気づいていたのに、声をかけなかったのかもしれない。もし、そうだとしたら、なぜなのかしら。――疑惑の渦がわたしの頭の中に、湖水の波紋のように広がった。なぜ。どうして。なぜ――そういう問いの一つ一つの波の襞が、わたしの心を蝕んだ。わたしは、自分の勇気の無さに、半ば自嘲し、半ば後悔しながら、最後まで本の題名すら読まずに、その時まで手にしていた本を書架に返そうとした。ところが、どういうわけか、書棚はいっぱいで、幅が三センチほどもあるその本は、とても入りそうになかった。誰かが上の方の本を立ち読みして、その棚に入れたのだろう。空間のあるのは、上の方だけだった。わたしは背伸びして、その本を入れようとしたが、ほんの少しのところで、届かなかった。わたしはもう一度背伸びをして、試みた。その時、わたしの背後から、浅黒い筋肉質の腕が延びて、わたしの本を横取りした。
「何を読んでいるの」
浅黒い筋肉質の腕の持ち主は、背後でそういった。
「日本国憲法論?ふう~ん」
彼は、わたしの方に歩き始めた。わたしの手は、胸の苦しさに、極度の緊張のために、かすかに震えた。彼は、まだ気付かなかった。わたしは彼の方を見ることができずに、何を書いてあるのか分からない活字の上に目を据えていた。わたしの背後を、彼の足音が遠ざかっていった。わたしは、彼の後姿を見ることができなかった。苦い後悔の味が、わたしの心の中を占領した。二度とないかもしれない絶好の好機をわたしは逃したのだ。なぜ彼は、わたしに気付かなかったのだろう。それほどわたしは、目立たない女なのだろうか。本当に彼は、わたしに気付かなかったのだろうか。ひょっとしたら、気づいていたのに、声をかけなかったのかもしれない。もし、そうだとしたら、なぜなのかしら。――疑惑の渦がわたしの頭の中に、湖水の波紋のように広がった。なぜ。どうして。なぜ――そういう問いの一つ一つの波の襞が、わたしの心を蝕んだ。わたしは、自分の勇気の無さに、半ば自嘲し、半ば後悔しながら、最後まで本の題名すら読まずに、その時まで手にしていた本を書架に返そうとした。ところが、どういうわけか、書棚はいっぱいで、幅が三センチほどもあるその本は、とても入りそうになかった。誰かが上の方の本を立ち読みして、その棚に入れたのだろう。空間のあるのは、上の方だけだった。わたしは背伸びして、その本を入れようとしたが、ほんの少しのところで、届かなかった。わたしはもう一度背伸びをして、試みた。その時、わたしの背後から、浅黒い筋肉質の腕が延びて、わたしの本を横取りした。
「何を読んでいるの」
浅黒い筋肉質の腕の持ち主は、背後でそういった。
「日本国憲法論?ふう~ん」


