千鶴子の歌謡日記

「彼がもし朝寝坊で二時間目の授業を欠席したとしたら、彼の朝食は遅かったはずであり、食堂に行くことはないだろう」
と考えた。内部はひどく混雑していた。売り場面積が十坪ぐらいしかないところに、五十人近い学生がはいっていた。雑誌コーナーは、入口の右手の少し奥にある。店内を何気なく見渡した後で、わたしの視線は、そこにくぎ付けになった。わたしが人垣の間から垣間見ると、果たして彼がそこで雑誌を拡げて立っていた。前髪が数本、ばらついていて、彼の広い額に弓のような影を落としていた。彼の白い爪と力強い優美な手は、雑誌を鷲掴んでいるように見えた。そして、彼のうつむき加減の横顔は、彼の鼻梁の美しさを際立たせていた。丁度、硝子窓に溢れる外光が彼の光背のように見えた。
 彼の姿を見た時のわたしの心臓は、不意に不規則に鼓動し、わたしの呼吸を乱した。わたしは、極度の圧迫を胸におぼえ、その場にしゃがみ込みたいという衝動に囚われた。わたしは、半ば書架にもたれかかるようにして、入口の右手の壁側の書棚に手をかけて、彼の方にわたしの横顔を向けた。わたしは一冊の本を手に取り、ページを送るようなしぐさをして、そのたびに首を大きく動かして、彼の方を伺った。彼が、わたしの存在に気付く気配は全くなかった。彼は、真剣な眼差して、雑誌に目を通していた。わたしはいっそのこと、彼に声をかけようかと思った。声をかけるときに、声が掠れはしまいかと、生唾を幾度も飲んだ。でも、できなかった。決して、プライドが許さなかったからでなない。わたしには、自信がなかった。彼の立っているところまで、倒れずに歩いて行けるという自信が。膝ががくがくしていた。だから、わたしは、ずっとそこ立っていることに決めた。彼が外に出るときには、必ずわたしの傍らを通るだろう。そのとき、彼は声をかけるだろう。たとえ、わたしに気付かないとしても、気づかせなくてはならない。手にした本の文字は、全くわたしの目の中に入ってこなかった。わたしは、時折、ページを送って首を動かし、彼の所在を確かめることで、頭がいっぱいだった。