千鶴子の歌謡日記

 わたしは、もう一度、校門を入ってきた彼の姿を思い浮かべてみた。その時、彼は、すぐ左には曲がらなかった。彼は、まっすぐに歩いていた。もし、彼が食堂に行くつもりだったのなら、もし彼が図書館に行くつもりだったのなら、すぐに左に折れなくてはならなかった。でも、彼はまっすぐ歩いて行った。まっすぐ行くとしたら、中庭か、民法Ⅱの教室か、生協か、屋上か、掲示板の前か。
 わたしは、食堂の人ごみのなかで、一人だけ目的もなく立ち尽くし、呆然としていた。津波の様な多くの学生の群れが、わたしの目の前を行き違い、楽しげに談笑して通り過ぎた。食堂の入り口から外を見ると、彼とおなじ様な服装をした学生が多数歩いていた。その人の流れのなかに、彼に似た姿を見出すと、わたしの胸が長い槍でつかれたように、発作的に高鳴った。そして、その学生が、彼ではないとわかると、わたしは自分の愚かさと、矮小さに自嘲した。ただ、その時のわたしを慰めてくれたのは、石川啄木の『一握の砂』の一首だった。
『君に似し姿を街に見る時のこころ躍りをあはれと思え』
 啄木の死は、男心を歌ったものだけど、なんてわたしのあの時の心境に似ているのだろう。でも、わたしには、男の人が心を躍らせるなんて信じられない。男の人も、女のわたしと同じように、似たような姿を見ただけで、心を虚しく躍らせるのだろうか?その心躍りは、あの時のわたしの気持ちと同じように、切なくやるせない苦しみを伴っているものなのだろうか?男と女の関係に関する限り、男の心理も女の心理も同じものなのかもしれない。そうでなければ、森?外や夏目漱石ファンの女子学生の存在を説明できない。もし、そうだとしたら、白井さんもわたしと同じ心理を抱かないのは許せない。わたしが、これほど胸を痛めているのに、白井さんは、平然としているのだから。
 わたしは、五分間ぐらい、そうやってボンヤリと立っていただろうか。食事を済ませていなかったので、少し空腹を覚えていた。わたしは、完全に絶望し、あてのない思い上がりを自ら諌めた。わたしは、諦めて川村さんがいるはずの、別の食堂に行こうとして、外に出た。その途中、わたしは生協の書籍部に立ち寄った。その時のわたしも、やはり彼がいるかもしれないという淡い期待を抱いていた。生協の書籍部に入りながら、わたしは、