千鶴子の歌謡日記

 最後に、お前は、事物の虚しいことを知りながら、なぜに日記を書くのか?『般若波羅蜜多心経』の「色即是空空即是色」であるならば、このインクとこの紙片にどれほどの意味があるだろうか?どうせ日記に書き記すことのできない、表現不可能な心証ならば、何も眠いのをこらえてまで書くことはないではないか。それでもお前が日記を書くのは、結局、一知半解どころか、お前は何も知ってはいないからだ。結論を言おう。現在お前は、自分自身がどうしても現実を認められないということを知っている。そして、在りもしないものを追い続けている。それだけのこと。そこで、お前に忠告しよう。一体お前は、在りもしないものが、あるはずのないことを、はっきりとわかってるのか?そして、そのことがもしわかって居るとしたら、お前は、永久にお前の追い求める心を満たしてはくれない全世界を否定するか、それとも、永久にお前の追い求める心が満たされないままでいることを知っている自分自身を否定するか、そのどちらかの道しか、お前の取るべき道はない。いずれにしても、お前は生きる意味を見いだせないでいる。それでもだらだらと生きていることは罪深いことだ。死に値する。そこで、自己否定の歌が生まれる。

  我が骨灰は 天に撒け
   余りにも 罪深き我なれば
  我が来世は 空にあり
   余りにも 罪深き我なれど
    ああ 神よ ついに汝が姿 我は見ず
ああ 神よ ついに汝が愛を 我は知らず
  我が骨灰は 天に撒け
余りにも 罪深き我なれば

  我が亡骸は 鳥に付せ
余りにも 信薄き我なれば
  我が幸せは 黄泉にあり
   余りにも 信薄き我なれど
    ああ 君よ ついに偽りに 我は死す
ああ 君よ ついに真実を 我は告げず
我が亡骸は 鳥に付せ
   余りにも 信薄き我なれば

  我が卒塔婆は 山に置け
   誰一人 嘆かない我なれば
  我が墓碑銘は 川に書け
   誰一人 身寄りなき我なれば
    ああ 人よ ついに無為のまま 我は去る
    ああ 人よ ついに何事も 我は為さず
  我が過去帳に 唾を吐け
   それだけに 値する我なれば


四月三十日