千鶴子の歌謡日記

 第二に、お前はなぜ日記を書くのか?一体日記を書くとどんないいことがあるというのか?和泉式部の『和泉式部日記』や紀貫之の『土佐日記』や藤原道綱母の『蜻蛉日記』や樋口一葉の『一葉日記』や永井荷風の『断腸亭日乗』じゃあるまいに、だれが読むというのか?何も生み出さない日記を書いてどうする気なのか?夜の夜中の二時過ぎに、お前はもう眠くて眠くて仕方がないのに、体がだるくてしょうがないのに、なぜ?なぜ、こうして日記を書くのか?・・・わからない。日記さえ書かなければ、何も考えることも、悩む苦労も書き記す必要はないではないか?お前はそれをよく知っているはず。何事も、書き記すという確認の形式を踏まなければ、全てが時間の流れの中に渾然一体となって、見境がつかなくなるはず。気を紛らわせるというのは、その代表的な方策。そのことを、お前は知りすぎるほど知っているはず。――それなにになぜ?
 第三に、お前はなぜ現実を認めないのか?現実さえ認めれば、お前はルネサンス人、レオナルド・ダ・ヴィンチの心のように自由ではないか。考えることも、悶えることもない。現実にお前自身がお前の理想を胚胎しきれなくなって、死産の陣痛にあえいでいるではないか。言いたくてならない時、したくてならない時、なぜすぐにそれをしないのか?なぜ、思考を媒介とするのか?ルネ・デカルトの『哲学原理』の「コギト・エルゴ・スム」でもあるまいに、お前は、自分がそれをしたいということを思考するまでもなく知っているではないか。ここまで書き連ねてきても、依然としてお前は改めようとはしない。――つまりお前は、自分自身の空中の楼閣のために、したいこともできずに、ただ黙りこくって、そして理想に苛まれる。一体全体、お前は、それが愉しいのか?楽しいのなら、なぜもっと嬉しそうな仕種をしないのか?そうやって、一度でも楽しいと思った時があったのか?いや、いや、お前は決して楽しんではいない。満足しているだけ。詰まんない自己満足に溺れているだけ。