千鶴子の歌謡日記

 早世や夭折も好きだ。『ガロア理論』のエヴァリスト・ガロア、『肉体の悪魔』『ドルジェル伯の舞踏会』のレイモン・ラディゲ、『船中八策』の坂本龍馬、『いのちの初夜』の北条民雄、『たけくらべ』の樋口一葉、『日本資本主義発達史』の野呂榮太郎、『現代経済学-生産分析』の古谷弘、いずれも老醜を曝さずに人生を終えた。だから美しい。そこで、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』から歌が生まれる。

  人の悲しみは
   我が悲しみ
  この世の不幸は
   我が不幸
    ただ人のためにだけ
     涙を流す
    そういう人にわたしはなりたい

  街の片隅で
   人知れずに
  名もなく貧しく
   つつましく
    誰からもほめられず
     ひそかに生きる
    そういう人にわたしはなりたい

  人の喜びは
   我が喜び
  この世の平和は
   我が平和
    ただ人の仕合せを
     心に祈る
    そういう人にわたしはなりたい

四月二十五日

 敗北。春の夜、沈滞して、動こうとしない稠密な空気に、息が詰まり、昨夜の快楽の奈落の想いに一人悶々と悩む。筆は、別個の生きもののように動き、思いは、ある焦点に燃焼する。LED蛍光灯の明るさが白々しく、虚しい空を仰ぎ見ているように思える。昨夜の結晶作用を想えば、今一度のあの人に会いたい。
「今日が最後だ」
と言った。あのわたしの鼓膜を愛撫するような低い囁き。日記の紙面に敗北の苦い文字が記される。
 筆は遠隔操作のダビンチの玩具のように、意識の外で緩慢に動く。男は24、女は20.
男は、
「二十二の女と結婚する」
と言った。
「だから今日限りで会わない」
と言った。ああ、この敗北の、ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』でエマ・ボヴァリーが亭主シャルル・ボヴァリーに盛った砒素の味。これまで出逢ったことのない最高の人が遠ざかって行く悲哀。もういまい。あれほどの人は。そこで美空ひばりが歌ったオスカー・ハマースタイン2世の『恋人よ我に帰れ』のような歌が生まれる。

  心残りは
  あなたの溜息
   訳も言わずに
    もう逢えないと
  別れて気付いた
   あなたの想い
   帰れ 帰れよ 我が恋人よ

  翳り染む陽は
  あなたの眼差し
   憂う瞳に
    煌めく滴
  わたしはあなたの