今日も、自然の罠にかかり、その罠にかかったことに気づかない有象無象の恋人たちは、楽しげに安っぽい陳腐な「愛」を語らう。恋人のいない若い男女は、セックスシンボルの仕掛け人のトラップに引っかかり、切ない片思いの疑似恋愛を求めてCDをせっせと買い求める。小泉今日子の『なんてったってアイドル』とそのファンたちは、大人たちの金儲けの道具にされていることに気付かない。こうした構図に嫌悪を覚える高尚派は、自分たちの関係に悲劇性を見出そうとする。オーダーメイドは個性を喪失させる。三島由紀夫が自分の人生をそうしたように、自分たちの恋愛を三島由紀夫が言う「別誂え」にするためには、想像を絶する悲劇が必要になる。ところが、この何事にも恵まれた平成の世には、悲劇はどこを掘り起こしても見つからない。そもそも不況なのに不況であることに気づかないことが悲劇なのだ。
大震災のように未曾有の偶然の悲劇は、偶々有るかも知れないが、求めて得られる悲劇はない。戦争もないし、横暴な官憲もいないし、自由な恋愛を禁忌とする風潮もない。
ああ、これほどの悲劇があろうか。悲劇のないという悲劇ほど、残酷なものはない。塩の辛味がなければ、砂糖の甘味もなくなる。醜がなければ美もない。谷がなければ山もない。死がなければ生もない。悲劇がなければ、恋愛の歓喜の絶頂もないのだ。
真性の愛欲というものは、肉体だけでは満たされない。いくら満腹になったとしても、味が粗悪では満足感は薄らぐ。常に空腹でないと、あまり美味しさも感じられないもの。それと同じように、熾烈な愛欲は、精神の燃焼を必須とする。同じ愛撫でも、一週間ぶりの愛撫と、連日の愛撫とでは、異なるし、ましてや好きな人の愛撫と好きでもない人の愛撫とでは歴然と異なる。このメンタルな焔があって、初めて女の唇は濡れる。
でも、この平成の世には、熾烈な恋愛の木の養分となる滋養の禁忌がない。禁忌には確かに恋愛を歪める作用もある。昭和初期の、ただ陰湿なだけの恋愛がそうだ。でも、そもそも、恋愛とは人生の一つの歪みだ。歪みがなくなると、男と女は、中年過ぎの夫婦のように、夜半の褥のなかで単なる性欲の電極となるのみ。そこで、マレーネ・ディートリヒの『リリー・マルレーン』のような歌が生まれる。
煙草は体に毒だから
吸い過ぎないでと吸いさしを
いつも消したあなたが
大震災のように未曾有の偶然の悲劇は、偶々有るかも知れないが、求めて得られる悲劇はない。戦争もないし、横暴な官憲もいないし、自由な恋愛を禁忌とする風潮もない。
ああ、これほどの悲劇があろうか。悲劇のないという悲劇ほど、残酷なものはない。塩の辛味がなければ、砂糖の甘味もなくなる。醜がなければ美もない。谷がなければ山もない。死がなければ生もない。悲劇がなければ、恋愛の歓喜の絶頂もないのだ。
真性の愛欲というものは、肉体だけでは満たされない。いくら満腹になったとしても、味が粗悪では満足感は薄らぐ。常に空腹でないと、あまり美味しさも感じられないもの。それと同じように、熾烈な愛欲は、精神の燃焼を必須とする。同じ愛撫でも、一週間ぶりの愛撫と、連日の愛撫とでは、異なるし、ましてや好きな人の愛撫と好きでもない人の愛撫とでは歴然と異なる。このメンタルな焔があって、初めて女の唇は濡れる。
でも、この平成の世には、熾烈な恋愛の木の養分となる滋養の禁忌がない。禁忌には確かに恋愛を歪める作用もある。昭和初期の、ただ陰湿なだけの恋愛がそうだ。でも、そもそも、恋愛とは人生の一つの歪みだ。歪みがなくなると、男と女は、中年過ぎの夫婦のように、夜半の褥のなかで単なる性欲の電極となるのみ。そこで、マレーネ・ディートリヒの『リリー・マルレーン』のような歌が生まれる。
煙草は体に毒だから
吸い過ぎないでと吸いさしを
いつも消したあなたが