叶いもせずに風に舞う
不忍池の貸しボート
上野の森の美術館
想い出は時の囚われ人
時は盗人 帰らぬ世界
時は罪人 返さぬ言葉
時よ心が あるならわたしに
あなたを返して 愛しい胸に
時よ心が あるならあなたに
わたしを返して 優しい胸に
四月十一日
ミシェル・ビュトールの『時間割』のような日記を書きたい。でも鏡の中のわたしは、ぼうっと映った女子学生さん。その瞳は鏡の裏のずっと先に浮かんでいて、その視線は宙に漂って定まらない。何の因果か、此処にこうして立って、ぼんやりと頬の泪を眺めている。じっとしていると、鏡の中のわたしと鏡の前のわたしとが極まりなく乖離する。――それはアメデオ・モディリアーニの『髪をほどいた横たわる裸婦』のアンバランス。
フランス文学の第一回の授業。モーリス・ブランショを専攻する、ポルシェを乗り回す中年の准教授。夕方の5時限。アニマルズの『朝日のあたる家』のような階段教室に西日が射す。わたしは声を震わせて質問する。
「サルトルの『嘔吐』の中で、アントワーヌ・ロカンタンが鏡の中を覗く描写が一人称の現在形で書かれているが、鏡の中を覗きながらどうやって文章を書くのか?現在形で書かれた文章と鏡の中を覗いているアントワーヌ・ロカンタンは、トロンプ・ルイユのようなものではないか?鏡を見ていれば、手元の万年筆を見ることはできない。リアリズムに反するのではないか?」
八王子在住の准教授は誤魔化して、実存の解説をして、質問にまともに答えなかった。一人称現在形の文章の矛盾について、考えたことがないようだ。
鏡の中のわたしは、次第にパブロ・ピカソの『泣く女』になる。鼻は窪み、目は後ろにつき、口が顎にくる。強調された悲しみよりも、奇怪なグロテスクが鼻につく。時は鏡の銀箔の裏を流れ行き、ひと時に、時空の歪みがよぎり、大きく時が経つと、一瞬、輝きがアルキメデスの熱光線のように角度を変える。そのたびに、鏡の裏のわたしは時を遡る。――それは、クレタ島人のパラドックス。
「わたしはウソつきです」
不忍池の貸しボート
上野の森の美術館
想い出は時の囚われ人
時は盗人 帰らぬ世界
時は罪人 返さぬ言葉
時よ心が あるならわたしに
あなたを返して 愛しい胸に
時よ心が あるならあなたに
わたしを返して 優しい胸に
四月十一日
ミシェル・ビュトールの『時間割』のような日記を書きたい。でも鏡の中のわたしは、ぼうっと映った女子学生さん。その瞳は鏡の裏のずっと先に浮かんでいて、その視線は宙に漂って定まらない。何の因果か、此処にこうして立って、ぼんやりと頬の泪を眺めている。じっとしていると、鏡の中のわたしと鏡の前のわたしとが極まりなく乖離する。――それはアメデオ・モディリアーニの『髪をほどいた横たわる裸婦』のアンバランス。
フランス文学の第一回の授業。モーリス・ブランショを専攻する、ポルシェを乗り回す中年の准教授。夕方の5時限。アニマルズの『朝日のあたる家』のような階段教室に西日が射す。わたしは声を震わせて質問する。
「サルトルの『嘔吐』の中で、アントワーヌ・ロカンタンが鏡の中を覗く描写が一人称の現在形で書かれているが、鏡の中を覗きながらどうやって文章を書くのか?現在形で書かれた文章と鏡の中を覗いているアントワーヌ・ロカンタンは、トロンプ・ルイユのようなものではないか?鏡を見ていれば、手元の万年筆を見ることはできない。リアリズムに反するのではないか?」
八王子在住の准教授は誤魔化して、実存の解説をして、質問にまともに答えなかった。一人称現在形の文章の矛盾について、考えたことがないようだ。
鏡の中のわたしは、次第にパブロ・ピカソの『泣く女』になる。鼻は窪み、目は後ろにつき、口が顎にくる。強調された悲しみよりも、奇怪なグロテスクが鼻につく。時は鏡の銀箔の裏を流れ行き、ひと時に、時空の歪みがよぎり、大きく時が経つと、一瞬、輝きがアルキメデスの熱光線のように角度を変える。そのたびに、鏡の裏のわたしは時を遡る。――それは、クレタ島人のパラドックス。
「わたしはウソつきです」


