リチャード・マティスン、『人生モンタージュ』とは箴言、偶然で無い断片がAの画面になり、瞬間に生まれた悠久がBの画像になる。賢明な人はアンディ・ウォーホルのシルク・スクリーンの前には立たず、たとえ、スプリングがいかれていても客席に座り、自分の人生モンタージュを観る。それはちょうど、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』を見るのと同じように印象の連続で終わる。終わってしまえば早いもの、親切にも興行主の「時間」は、終了すると速やかに緞帳を下してくれる。ありがたいことに・・・。客席の賢明な人々は何の疲労も知らずに、時間の流れの傍らに聳える山巓におかれる。山頂と流れの間には、分厚い積乱雲が垂れ込めて、野茂英雄のトルネードの坩堝の中で流れは全く見えない。星新一のような賢明な人は時間の流れの騒がしさも知らず、とてつもなく巨大に膨張した希薄な無限大の時間の中に佇む。そうやって、初めて自分で切断した首を、マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエールの断頭台の斧で滅茶苦茶に叩き裂くような恐怖を覚える。
愚鈍な人は愚鈍なりに、スクリーンの中で自分があたかも主人であるかのように活動し、客席の賢明な人に激しい羨望を抱きつつも表面では優越者ぶって冷笑し、人生モンタージュの最後の画面まで、息絶え絶えに走り続ける。その時はもう疲労困憊し、賢明な人のように笑うことすらできない。しかし、愚鈍な人は時間の流れのすぐ近くの小高い丘に住むことができ、喉が渇けば流れを飲むこともでき、たっぷりとした濃密な時間の中に佇み、折々、流れの音に福耳を傾けることができる。愚鈍な人は画面を走り続けながら、こうなることを予知していないが、矢張り客席に座りたいという欲望を抑えて、ご苦労様に全身汗だくになって、人生モンタージュの画面を、画像となって動き続ける。いったい時間とは何か?そこで、塚原将の『時』のような歌が生まれる。
時が二人の世界を変えた
時が二人の言葉を変えた
鶯谷の陸橋で
わたしが電車を待つ間
小さく手を振っていたあなた
谷中の坂の真ん中で
擦れ違ったのに振り向きも
気づきもしないで去って行く
時よ二人の世界をどこへ
時よ二人の言葉はどこへ
湯島天神白梅に
願いをかけたお神籤が
愚鈍な人は愚鈍なりに、スクリーンの中で自分があたかも主人であるかのように活動し、客席の賢明な人に激しい羨望を抱きつつも表面では優越者ぶって冷笑し、人生モンタージュの最後の画面まで、息絶え絶えに走り続ける。その時はもう疲労困憊し、賢明な人のように笑うことすらできない。しかし、愚鈍な人は時間の流れのすぐ近くの小高い丘に住むことができ、喉が渇けば流れを飲むこともでき、たっぷりとした濃密な時間の中に佇み、折々、流れの音に福耳を傾けることができる。愚鈍な人は画面を走り続けながら、こうなることを予知していないが、矢張り客席に座りたいという欲望を抑えて、ご苦労様に全身汗だくになって、人生モンタージュの画面を、画像となって動き続ける。いったい時間とは何か?そこで、塚原将の『時』のような歌が生まれる。
時が二人の世界を変えた
時が二人の言葉を変えた
鶯谷の陸橋で
わたしが電車を待つ間
小さく手を振っていたあなた
谷中の坂の真ん中で
擦れ違ったのに振り向きも
気づきもしないで去って行く
時よ二人の世界をどこへ
時よ二人の言葉はどこへ
湯島天神白梅に
願いをかけたお神籤が


