千鶴子の歌謡日記

 人間のすることは虚しい。それは自然の悠久と比較して言うのじゃない。また、相対的に虚しいというのでも、絶対的にそう謂うのでもない。兎に角、空しいのだ。
 松本清張が『三田文学』で発表し、芥川賞を受賞した『或る「小倉日記」伝』の田上耕作のように、人間があるとことを成し遂げたと思ったところで、よくよく考えてみれば、成し遂げたというのは一時的な感情で、そのことは、単なる自己満足に過ぎない。そのことに気付くか、気づかないか、それは真の芸術家と、一般の人との相違だ。いずれにしても、わたしの青春に太宰治の娘、津島佑子の『レクイエム』を捧げよう。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのケッヘル262ニ短調『レクイエム』はかなりの寿命を保つだろうが、津島佑子の『レクイエム』は死に絶えたに等しい。わたしは生物学的には生きているが、死んでいるに等しい。
 自殺は個人の異常心理的行為であると同時に社会病理的現象だ。社会病理的現象と見られる理由は自殺の増進、減退が、国家の統制力の強弱、社会経済的活動の変動、安定など、社会的諸事情に伴う社会集団の凝集性の緊張と弛緩と密接に関係しているから。
 戦争中は各国とも自殺率が激減する。
 自殺者は社会的地位の安定しない失業者や高齢者に多い。
 社会活動への参加が大であると考えられる男子が、女子よりも常に自殺率が高く、社会活動への参加の男女差の少ない国程、自殺の男女差が少ない。
 社会的移動の著しい都市が農村よりも自殺者が多く、生産活動の盛んな地方の方が停滞している地方よりも自殺率が高い。
 芥川龍之介は防衛的自殺だ。「ぼんやりとした不安」という生存の基盤に関する激しい憂慮から逃避した結果だ。
 太宰治は自己懲罰的自殺だ。『人間失格』という自己に対する強い罪悪感を持ち、激しい自己叱責から究極の自己否定として自殺を選ぶ。
 三島由紀夫は攻撃的自殺だ。激しい怒りに基づく、心的抗争から市ヶ谷の自衛隊駐屯地で演説をしたのではないか。
 ソクラテスや金子みすゞは犠牲的自殺だ。自己にとって至上価値を持つものを守り、あるいは、その命に従うものとして服毒したのではないか。
 藤村操はエクスタシー自殺だ。自己陶酔の結果として巌頭から投身入水したのではないか。
 わたしは耽美的自殺だ。そこで、シャインズの『私の彼はサラリーマン』のような歌が生まれる。