千鶴子の歌謡日記

といつも思う。そのとき、後ろを眺めてみると、高村光太郎の『道』のようには、わたしの歩いてきた道には何もありはしない。ぼんやりと前に目を向ける。何かが幽かに動いている。それがわたしを惹いて行く。ただ、その模糊としたもののため――人間の創り出した「絶対」という観念のため――執拗な死神を背負って、徒に生を永らえる。その模糊としたものを見失うとき、もはや、わたしは生きては行けまい。生も死も運命ならば、わたしは見失わないように努力しはしない。生も死も、ジャン・カルヴァンの『予定説』に基づくものなら、わたしは見失わないことだけを祈って、救われるような人間ではないから、何もしない。ただ、悄然と生きてゆくだけ。これほど難しいことはない。でも、もし、その模糊としたものを見失い、生きているのがいやになった時、わたしはどうせ自分ひとりじゃ死ねない人間だから、その時は、どうやって生きてゆく理由をこさえようか。ああ、もう、書くことすら嫌になった。渇望と絶望を繰り返すだけ。そこで、サイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』のような歌が生まれる。

  もしもできることならば ならば
  空翔る鳳に身を窶し
   山の向こうの幸せを見てきたい
  もしもできることならば ならば
  空を翔て 空を駆けて
   できるものならば

  もしもできることならば ならば
  この庭の土くれに種をまき
   春夏秋に咲く花を見ていたい
  もしもできることならば ならば
  冬を越えて 冬を超えて
   できるものならば

   身も心も沸き立たせて
   もしも もしも もしもは
   いつも いつも いつも夢で終わる
   そう そうではあるけてども
   せめて せめて せめても
   できるものならば

  もしもできることならば ならば
  パンドラよ その箱は開けないで
   この渇望に身を焦がしたくない
  もしもできることならば ならば
  鍵を掛けて 鍵を懸けて
   その箱に鍵を

   身も心も燃やし尽くし
   希望 希望 希望は
   涙 涙 涙だけで終わる
   さめて さめて さめても
   またもとのわたし


三月十九日