なぜなら、悲しい愛は、誰しもが好ましい感情を抱くものだから。ある人は、自分の愛の幸福と比較して、優越感を抱くかもしれないし、別の人は同情を抱くかもしれない。週刊誌に取りざたされる芸能人の下世話な恋愛は、悲しくないがゆえに、愛を持たない人に羨望を、愛されない人に嫉妬を齎す。そして、池谷信三郎の『有閑夫人』のような有閑なる人々は、その雑誌を暇潰しの術にしている。
 最も悲しい愛とは、嫉妬とか、裏切りとか、姦通とかではなく、『ギリシャ神話』のティスベとピュラモス、ウイリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』、ラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』のヌムール公とクレーヴ夫人などの間に見出される禁忌を伴った愛のこと。そういう愛は、口に出しても決して滑稽ではない。ちょうど、苦学生が苦学している話を口にするようなとき、同情はしても決して軽蔑や冷笑の対象とはならない。
 秋元康はソフトセックス産業育成の天才だ。お金のために娼婦になってもいいと思う女性もいるかもしれないが、多くは恥を知って娼婦にはならない。多くの作詞家もソフトセックス作詞はカネになることは十分承知している。しかし、それは沽券が許さない。ソフトセックス産業の裏方は、プライドは傷つくが、カネになるし、顔も名前も出ないから我慢ができる。顔も名前も出してソフトセックス産業に邁進している作詞家は厚顔無恥としか言いようがない。海外カジノで泡銭を散在してストレスを解消せざるを得ないのかもしれない。政府の諮問委員会のメンバーに選ばれたときの場違いな情けなさそうな厚顔無恥の表情が忘れられない。