千鶴子の歌謡日記

 庄司薫が『赤頭巾ちゃん気をつけて』でパクった、ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公は、間違いなくボールデン。マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』の主人公も間違いなくスカーレット・オハラ。そして、『老人と海』や『誰がために鐘は鳴る』や『武器よさらば』のアーネスト・ヘミングウェーの小説の主人公も、小説中に最もよく登場する者がそれと見て間違いない。でも、マダム・ド・ラファイエットの『クレーヴの奥方』の主人公は、決してクレーヴ夫人でも、ヌムール公でもない。主人公は、語り手自身なのだ。作中にもっとも頻繁に登場する人物は、単に作者の道具に過ぎない。こういう小説作法を徹底させるとピエール・アンブロワズ・フランソワ・ショデルロ・ド・ラクロの『危険な関係』やサミュエル・リチャードソンの『パミラ、あるいは淑徳の報い』のようになる。そして、さらにおし進めると、ロブ・グリエの『嫉妬』のようになる。
 松枝清顕も綾倉總子も、三島由紀夫の用具に過ぎない。作者の本質は、より多く本多繁邦に乗り移っている。したがって、作者は、この小説において、恰も近世小説の神のように、恰もミニチュアを弄る子供のように、松枝清顕と綾倉總子を遠隔操作している。松枝清顕の喜びにも悲しみにも少しも、『禁色』の檜俊輔に対するように、作者の本質が注入されていない。『春の雪』の二人の恋愛は、全て原稿用紙の上だけの作りごとの楼閣に過ぎない。