千鶴子の歌謡日記

由があるが、映像情報には自由があまりない。文字の男を自分好みの美男子に想像できるが、映像の男はそのままだ。それが耐えられない。だからわたしは映画で徹夜することはない。
 出版社の謳い文句を見るまでもなく、『春の雪』は言うまでもなく典型的な作為的な意図的な恋愛小説。従来の恋愛小説は数少ないハッピーエンドか、ほとんどが悲劇かのどちららかに峻別される。でも、この小説は違う。それはなぜか?この小説は、古典的な悲劇に終わる恋の物語ではない。狂言回しの様な本多繁邦の存在が、この小説が悲恋の物語であることを拒絶する。一見、主人公は松枝清顕のようだが、彼は本多繁邦の影に過ぎない。もし、本多繁邦が登場していないければ、この小説は凡庸な一篇の恋愛小説たりえただろう。だが、本多繁邦は松枝清顕を副主人公にし、彼自身が主人公であることを主張する。それはちょうど、ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』の主人公がエマ・ボヴァリーではなく、ブルジョアのわたし生活であり、またスタンダールの『赤と黒』の主人公がジュリアン・ソレルではなく、1830年代のフランス社会であることと似ている。ジョン・スタインベックの『エデンの東』の主人公は、アダムとキャルかも知れない。でも、それは最後になって、覆される。主人公はどちらでもなく、中国系移民の料理人リーなのだ。わたしは、小説の中で、作者によって小説の道具としてしか見做されていない人間を、主人公として見ることはできない。