ところで、わたしはα波を引き出してくれる歌声が好きだ。日本人歌手では美空ひばり、アメリカ人歌手では、アンディー・ウィリアムスやカレン・カーペンター、イギリス人歌手では、エンゲルベルト・フンパーディンク、スペイン人歌手では、フリオ・イグレシアス・・・彼らの歌唱法には共通点がある。喉で発生した歌声をそのまま口外に出さずに、NHKのアナウンサーの様に一旦口蓋の中でワンクッションを入れて、歌声をα波加工してから口外に出す。だから、当然のことながら、話し言葉とは発生音が異なり、別人のような声になる。美空ひばりは『悲しき口笛』を歌った小学生のころから、この歌唱法を体得していた。ただし、ファルセットでは平板になって、八代亜紀のようにはα波は引き出されない。でも、小椋佳の『愛燦燦』の「過去達は優しく睫毛に憩う」というとってつけたような嫌らしい擬人法も美空ひばりがプロ根性むき出しで歌えば嫌らしく聞こえない。聴くのに辛いものがあるが・・・。
美空ひばりもカレン・カーペンターも決して美声ではない。唄がうまいというのはα波を刺激するから。美声の歌手は多い。美声を評価されているからα波を刺激する歌唱法を獲得する努力をしない。『ラブ・ストーリーは突然に』の小田和正は美声だが、それだけ。他の歌手が歌ってもいい曲には聞こえないが、彼が歌うと名曲のように聞こえる。α波のない歌手と言えば、松任谷由実や中島みゆきが代表格だ。しかし、曲と詞が補って余りある。楽曲の販売において、シンガーソングライターは偉大だ。谷村新司やさだまししや小椋佳の強さは、詞想を完璧に曲と歌唱に反映させることができることだ。わたしの弱みは、曲と歌唱に詞想を反映させることができないことだ。
『川の流れのように』が『マイ・ウェイ』をパクったように、『草原の輝き』をパクってみよう。滄浪の流れ。それひとたび濁るとも、嘆くなかれ、その流れのある限り、常に濁ることなし。上流からの土砂の水底に堆積するとも、悲しむなかれ。その土砂の中に、綿々と秘められたる時の重みを見出すべし。そこで、秋元康の『川の流れのように』より多少ましな歌が生まれる。
河の流れよ
いまは水澄み清くとも
驕るなかれ 留まるなかれ
その岸辺ある限り
その流れある限り
とわに清いことがあろうか
河の流れよ
美空ひばりもカレン・カーペンターも決して美声ではない。唄がうまいというのはα波を刺激するから。美声の歌手は多い。美声を評価されているからα波を刺激する歌唱法を獲得する努力をしない。『ラブ・ストーリーは突然に』の小田和正は美声だが、それだけ。他の歌手が歌ってもいい曲には聞こえないが、彼が歌うと名曲のように聞こえる。α波のない歌手と言えば、松任谷由実や中島みゆきが代表格だ。しかし、曲と詞が補って余りある。楽曲の販売において、シンガーソングライターは偉大だ。谷村新司やさだまししや小椋佳の強さは、詞想を完璧に曲と歌唱に反映させることができることだ。わたしの弱みは、曲と歌唱に詞想を反映させることができないことだ。
『川の流れのように』が『マイ・ウェイ』をパクったように、『草原の輝き』をパクってみよう。滄浪の流れ。それひとたび濁るとも、嘆くなかれ、その流れのある限り、常に濁ることなし。上流からの土砂の水底に堆積するとも、悲しむなかれ。その土砂の中に、綿々と秘められたる時の重みを見出すべし。そこで、秋元康の『川の流れのように』より多少ましな歌が生まれる。
河の流れよ
いまは水澄み清くとも
驕るなかれ 留まるなかれ
その岸辺ある限り
その流れある限り
とわに清いことがあろうか
河の流れよ


