千鶴子の歌謡日記

 ああ、知るという行為は、なんと恐ろしいことだろう。死を知らなければ、決して死の恐怖にとりつかれることもない。他人のゴージャスな生活を知らなければ、羨望に苛立つこともない。寿命を知らなければ、自分だけは死なないという傲慢な錯覚をもつ。もう一人の恋人の存在を知らなければ、嫉妬に身を焦がすこともない。彼の姿と形を知らなければ、わたしはこれほどまでに、胸苦しい夜を迎えなくても済んだであろうに。あの瞳、あの額、あの鼻、あの唇、そしてあの胸の厚み――それらが、彼という一つの抽象に束ねられて、わたしの胸を圧迫する。今のわたしには、慰める以外に何の手立てもない。これからこうしていつまでも、自己慰藉を続けなくてはならないのだろうか?この胸を逼塞させる彼の幻影から、一体いつになったら解放されるのだろうか?わたしは、もう一度会うことを望んでいる。それは、わたしのやるせなさが望むのであって、断じてわたし自身が望むものではない。このどこにも置き場のないやるせなささえなければ、わたしは、彼にもう一度、会いたいなどとは思わないだろう。
 でも苦しい。何て苦しいのだろう。いっそのこと、この胸が張り裂けてしまえばいい。そうすれば、張り裂けた苦痛が、彼の幻影の創傷を相殺してくれるかもしれない。
 次第にわたしは、文章を構成できなくなってきている。わたしのペン先は、今にでもわたしの自制を打ち破って、わたしの叫びを、生の形で迸らせそう。でも、いったい、こうしてわたしの右手を自制しているものは何なのだろう。わたしの心は、こう叫んでいる。
「誰か!助けて!どうにもならないの。この胸の苦しみが。ああ、ああ、もうだめ。死にそう。嗚呼、彼の口元、瞳、髪、胸、額、肩――すべてがわたしの体を溶かしてしまいそう。一瞬でいいから、その髪を、一度でいいから、その唇を、わたしのこの手で触れてみたい。そして、わたしの体が粉々に砕けてしまうほどに、その分厚い胸と逞しい腕に抱き締められたい」