千鶴子の歌謡日記

 その時、存在していたのは、あの人だけであり、あの人の顔を燦然と輝かせていた太陽だけだった。わたしの全存在は、太陽の光とあの人の姿にすり替えられていた。わたしの存在は、二つの外部世界の事物によって、湮滅させられていた。わたしがわたしに戻ったとき、わたしが第一に考えたことは、第一幕と第一楽章があっけなく終演したということだった。その瞬間を、あれほど熾烈に求めていたわたしなのに、誰しもが太陽光線のスペクトラムがむき出しになっている海辺で、太陽を直視することを避けるように、目の前であの人をつぶさに見ることはできなかった。わたしは、アルベール・カミュの『異邦人』のムルソーのように、太陽のせいにして、ピストルのトリガーを引くことはできなかった。わたしが、かろうじて、視界の隅に入れることのできたのは、あの人のオフホワイトの半そでのポロシャツと、朽葉色の薄手のパンツだけだった。その時のわたしの収穫はそれだけ。たった一粒のモロゾフのアーモンド・チョコレートのように、それはほんのひと時の鮮烈な印象を残して、すぐに消えた。でも、わたしは、あの人の名前を知ることができた。
 美しいものには名前を付け難い。「ダイヤモンド」と言っても、ダイヤモンドという言葉そのものは、少しも美しくない。ダイヤモンドという言葉が美しくなるためには、夥しい形容詞が必要とされる。その煌めき具合、光線の玩具箱をひっくり返したような輝き、動かすにつれて変わる光線の妖精たちの乱舞。ステファーヌ・マラルメは、美という言葉を表現するために幾行もの詩の言葉を要した。名指し難い美、その美の得難さに比して、その名前の入手のなんと手安かったことだろう。嗚呼、なんという倖せ。美を知った人間には、ただの名前でも、千金の値打ちがある。石坂浩二の本名が、武藤兵吉という野暮な名前であろうとも。