未練がありましょう
あなたが灯した
わたしのしあわせ
口にできない女だから
なみだでありがとう
わたしが死んだら
忘れていいのよ
望みはひとつ 最後にそっと
君だけ愛したと
九月二十五日
今日、あの人と会った。まるで、アルベール・カミュの『異邦人』の冒頭、「きょう、ママンが死んだ」日のようだ。この一週間がなんと長く思えたことだろう。前期末試験まであと一週間しかないというのに、わたしはノートの隅にあの人の似顔絵ばかりをマルク・シャガールの『七本指の自画像』風に描いている。
普段、何気なく三階の教室から見下ろす、噴水のある中庭の欅の木影の中に、わたしは知らず識らずのうちに、あの人の幻影を求めていた。あの人と同じ大学に在籍していることは、何という幸運だろう。もし、わたしが他の大学に入学していたら、もし、わたしが芸大に合格していたら、一生、あの人と出会う機会はなかっただろう。
わたしは、第四校舎の69番教室で、あの人をストーカーのように待っていた。あの人は、第3時限の法学を履修しているはず。わたしは、昼休みが終わり、授業の始まる前の学生たちの騒がしい、他愛のないお喋りの喧噪の中で、あの人の来駕を待っていた。その時のわたしには、学生たちの会話が醸し出す懈怠の騒音が、これから始まる熱情的な、ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』の前奏のように思えた。
わたしは、教室の右端のなかほどの座席に斜め後ろ向きに座り、あの人が入って来るはずの教室の後方の観音開きの扉を注視していた。昼休みの終了を告げる無粋なブザーが、さながら緞帳の降下を知らせる帝国劇場のブザーのように聞こえた。あの人はまだ来ない。でも、もう来るはず。ブザーが鳴って幕開きになったのだから。
学生たちの騒々しい喧しい会話はやまない。この騒擾は教師の登場の場面まで無作法に続く。わたしはその礼を失した行儀知らすの喧噪に苛立った。
「静かにして!もう幕は上がったのよ!」
あなたが灯した
わたしのしあわせ
口にできない女だから
なみだでありがとう
わたしが死んだら
忘れていいのよ
望みはひとつ 最後にそっと
君だけ愛したと
九月二十五日
今日、あの人と会った。まるで、アルベール・カミュの『異邦人』の冒頭、「きょう、ママンが死んだ」日のようだ。この一週間がなんと長く思えたことだろう。前期末試験まであと一週間しかないというのに、わたしはノートの隅にあの人の似顔絵ばかりをマルク・シャガールの『七本指の自画像』風に描いている。
普段、何気なく三階の教室から見下ろす、噴水のある中庭の欅の木影の中に、わたしは知らず識らずのうちに、あの人の幻影を求めていた。あの人と同じ大学に在籍していることは、何という幸運だろう。もし、わたしが他の大学に入学していたら、もし、わたしが芸大に合格していたら、一生、あの人と出会う機会はなかっただろう。
わたしは、第四校舎の69番教室で、あの人をストーカーのように待っていた。あの人は、第3時限の法学を履修しているはず。わたしは、昼休みが終わり、授業の始まる前の学生たちの騒がしい、他愛のないお喋りの喧噪の中で、あの人の来駕を待っていた。その時のわたしには、学生たちの会話が醸し出す懈怠の騒音が、これから始まる熱情的な、ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』の前奏のように思えた。
わたしは、教室の右端のなかほどの座席に斜め後ろ向きに座り、あの人が入って来るはずの教室の後方の観音開きの扉を注視していた。昼休みの終了を告げる無粋なブザーが、さながら緞帳の降下を知らせる帝国劇場のブザーのように聞こえた。あの人はまだ来ない。でも、もう来るはず。ブザーが鳴って幕開きになったのだから。
学生たちの騒々しい喧しい会話はやまない。この騒擾は教師の登場の場面まで無作法に続く。わたしはその礼を失した行儀知らすの喧噪に苛立った。
「静かにして!もう幕は上がったのよ!」


