千鶴子の歌謡日記

 わたしは、客観的には、一人の男を愛するために死に、同時に、その人を愛するために生きることになる。こうして生と死は、あたかもコインの裏と表と同じように、全く異なる概念となるにもかかわらず融合する。わたしの生き甲斐があの人だとすれば、わたしの死に甲斐もあの人だということになる。わたしが一人の男のために生きると言うのなら、わたしはその人のためになら死んでもいいと言わなければならない。そう言えなければ、本当にその人のために生きることにはならない。そして、その人の死は、後追い心中するまでもなく、わたしにとっても死を意味する。もし、最愛の人が死んだとしたら、わたしはわたしの愛するという純粋意志を抹殺して、再び、ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』のマロニエの木の根になるか、それともモノを殺して、つまり、自分自身を殺して、同時にそれに付随する純粋意志を殺すかしなければならない。
 だから、『愛と死を見つめて』の河野實は、死ななければならなかった。生き残り、他の女性と結婚した彼は何と醜いのだろう。もし、彼が、
「なぜ死なないのか?」
という問いに対して、
「家族もいるし、それに僕が死んだら、みち子さんも死ぬ」
と答えたとしたら、それは、世間に対して言い訳になるかもしれないけれど、あくまでも、生きる側の一方的な論理でしかない。つまり彼は、精神として生きる結果としての死と、物質として生きる結果としての生の二者択一で、後者を選んだことになる。もし、彼が、彼の全存在をかけて、大島みち子さんを愛していたのだとしたら、大島みち子さんの死によって、彼の全存在の対象がなくなるはずであり、したがって彼は、必然的に死ななければならない。君主の死を悼んで、家来が殉死するのと同じこと。本当に大島みち子さんが、心の支えであり、精神の働きのすべての対象であったのなら、そうであった証拠として、彼は死ななくてはならなかった。彼が生き残ったことは、逆に、彼が真実の「生」を生きることができなかったことを意味する。彼は、大島みち子さんを裏切ったのだ。そして、彼は、大島みち子さんを愛した自分を殺してしまったのだ。
 青山和子が歌う大矢弘子作詞の『愛と死を見つめて』の楽曲が虚しく脳裏に流れる。そして、殉愛の歌が生まれる。

  あなたが死んだら
    わたしも死にたい
   あなたのいない明日になんの