こうして、わたしの内部において、生と死の並列的な均衡が崩壊し、生と死のバランスが取れなくなった。もはや、わたしにとって、生は偶然ではなく、わたしがあの人に抱擁されたいという願望を認識している限りにおいて、必然になる。わたしは、認識している。あの人に抱きすくめられたいという衝動がわたしの内部にあることを。きっと人は、これを恋というのだろう。もし、この胸苦しさが恋だとしたら、その恋によって、わたしの内部世界の均衡は瓦解し、生も死も必然として存在する以外にあり方がなくなった。もしわたしが、明日にでも、交通事故に遭遇して、瀕死の重傷を負い、助かる見込みがないことを何らかの方法で知ったとしたら、わたしは、あの人に会いたいという願望を通して、生きることを希求し、死に行かねばならない不運を嘆息するだろう。わたしは、救急病棟の白いベッドの上で、医師に死を宣告されたとき、息絶え絶えに、
「生きたい!行きたい!生きてあの人に会いに行きたい!」
と悲痛に叫ぶだろう。その時、わたしにとって死は、わたし自身を強烈に生きさせる契機となり、九死の一生は僥倖となるだろう。死があるから生を感じるのだ。そして、もし、死におもむく床に、あの人が現れたら、わたしは、あの人に手を握られながら幸福の絶頂で死に逝くことになる。これほどの幸せがあるだろうか。その時、わたしが死んでゆけば、わたしは生きのびて、あの人の人間としての醜さや裏切りを知らずに済む。それはちょうど、心中に似ている。ただ違うのは、死ぬのが一人であることだけ。ウイリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の時差心中は、まさにこれだ。ロミオもジュリエットも、三島由紀夫の『金閣寺』で溝口が戦災を逃れた金閣寺に火をつけて美を葬ったように、相互に相手の美に死の最後通牒をつきつけた。
こうして、生と死は、偶然という尺度によって、共通の現象とはならず、生は死を必要とし、死は生を裏付けるものとなる。わたしがもし、あの人を愛する過程で死んだとしたら、それは、生の延長としての死を意味せずに、生と死は、まったく異なった符号によってはじめて、同一の意味を持つようになる。それは、空間的な並列でも、立体的な延長でも、時間的な連続でもなく、アルベール・カミュの『裏と表』の全く相反した関係によって、同一の意味を有する。
「生きたい!行きたい!生きてあの人に会いに行きたい!」
と悲痛に叫ぶだろう。その時、わたしにとって死は、わたし自身を強烈に生きさせる契機となり、九死の一生は僥倖となるだろう。死があるから生を感じるのだ。そして、もし、死におもむく床に、あの人が現れたら、わたしは、あの人に手を握られながら幸福の絶頂で死に逝くことになる。これほどの幸せがあるだろうか。その時、わたしが死んでゆけば、わたしは生きのびて、あの人の人間としての醜さや裏切りを知らずに済む。それはちょうど、心中に似ている。ただ違うのは、死ぬのが一人であることだけ。ウイリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の時差心中は、まさにこれだ。ロミオもジュリエットも、三島由紀夫の『金閣寺』で溝口が戦災を逃れた金閣寺に火をつけて美を葬ったように、相互に相手の美に死の最後通牒をつきつけた。
こうして、生と死は、偶然という尺度によって、共通の現象とはならず、生は死を必要とし、死は生を裏付けるものとなる。わたしがもし、あの人を愛する過程で死んだとしたら、それは、生の延長としての死を意味せずに、生と死は、まったく異なった符号によってはじめて、同一の意味を持つようになる。それは、空間的な並列でも、立体的な延長でも、時間的な連続でもなく、アルベール・カミュの『裏と表』の全く相反した関係によって、同一の意味を有する。


