昨日の夜、ずっと考え事をしていたせいであろうか。
 もう一度寝る気にはならなかった。
 何をするわけでもなく、読みかけの本に目を向ける。
 カフカの『変身』。
 もう三分の二ほど読み終えている。
 読んでいるときはいつも、自分が蟲になったらどうだろう、と考える。
 親が怖がるだろうから、グレーゴルと同じようにベッドの下に隠れるだろう。私には仕事に行く心配がないから、蟲になっても生活リズムはあまり変わらないかもしれない。グレーテのような世話をしてくれる人がいるかだけが心配だ。
 本に手を伸ばそうとして、ふと、透明になってしまった自分の右手の端が見えてしまった。
 「硝子病」
 三年前に初めて発見された奇病で、世界でまだ四例しか確認されていない。つまり、私が世界で五番目の発症者だ。
 身体が端から次第に動かなくなり、その動かない部分が硝子のように透明になることから、このけったいな名前が付けられた。ちなみに、この四人のうち、発病から半年以上生きていた人はいない。
 感染経路も原因も分かっていないのが、奇病と呼ばれるゆえんだ。
 つい先日、私は右手の薬指が動かないのに気が付いた。
 普段はあまり使わない指だから、気付いてもさほど焦らなかった。そのときにはまだ、私の指は透明でもなかったし、突き指でもしたのだろうと考えた。
 母に言って、近くの病院に行った。
 検査を待っている間、暇だったのでスマホを触っていた。薬指が動かなくてもあまり不便でないことが、少し面白かった。
 名前が呼ばれたとき、ふと自分の手を見てギョッとした。
 薬指が透けていたからだ。
 母に伝えようと思ったが、言葉が出て来なかったので、そのまま診察室に向かった。
 透明になってしまった指を見て、誰もが言葉を失った。
 状況を飲み込むのに一分ほどかかった。
 やっとのことで、先生が「硝子病」とつぶやいた。あまりに小さい声だったので、私も母も聞き取ることが出来なかった。
 母が首をかしげると、先生は我に返ったように診察室から出て行ってしまった。
 口を閉じることを忘れた母と待っていると、先生は駆け足で戻ってきて、「ここじゃ何とも言えないので、大きな病院へ移ってもいます」とだけ言うと、またどこかへ行ってしまった。
 看護師さんに紹介されて、その日のうちに県立病院へと移動した。