看護師さんは持ってきた昼食を机に置いてから、紙を拾い上げた。左手で書いたその汚い字は簡単には読み解けないようで、看護師さんは少し首をひねっていた。
私は、恥ずかしさで言葉も出なかった。必死になって言い訳を探したが、見付けることは出来なかった。
「かわいい夢だね」ずいぶんと間延びした喋り方だった。
私は首をかしげる。
「ねえ、他にしたいことはないの?お姉さんに聞かせてよぉ」
看護師さんはにっこりと笑って、ベッドの横の丸椅子に座った。
正直に言って、こういう人は苦手だ。
そもそも、人と話すのが得意ではない。特に何でもかんでも聞いてきて、勝手な解釈をする人間とは。
「特に何も思いつかなくて…」私は笑ったつもりだが、たぶん引きつっていた。
「そっかぁ…」落胆とも同情ともとれる返事だった。
余命の少ない人間と関わるのだから、それなりに気を遣ってくれているのだろう。
「○○ちゃん、何か相談したいことがあれば、いつでもお姉さんに言ってね」
親指を立ててそう言うと、軽やかな足取りで部屋を出て行ってしまった。
机に置きなおされた紙を、私は左手で握りつぶし布団の中に隠した。
昼食は質素なものだった。
何をするでもなく、ぼんやりとベッドの上で時間を潰していた。
時間がもったいないと思いつつも、やるべきことは見つからないままだった。
「暇だ」
とうとう、口に出してしまった。
暇もいいものだとはわかっている。
限りのある時間を無駄にするほど贅沢なものはない。
希少なものほど高価になるように、死が近づくほど時間の価値は上がる。そんな価値のあるものを贅沢に使えていると思えば、暇であることがいいことだと思える。
硝子化の進み具合を確かめようと右手を上げる。
透明な手を見ると、死への恐怖が湧き戻るので、朝から出来るだけ見ないようにしていた。
しかし、時間が進むにつれ、進行速度が分からない方が恐ろしくなってしまった。
右手は、もう、肘に差し掛かるところまで硝子になっていた。
速い。
このままの速度だと、明日には右手の全部が硝子になっているだろう。硝子化の速度に個人差はあると覚悟していたが、私が最速記録を塗り替えはしないと高をくくっていた。それも今ではむなしい。
ハッとして、左手を確認する。
手首の少し上まで硝子になってしまっていた。
これでは、もうペンは握れない。
急いで布団を、硝子の右手ではねのけ、ズボンの裾をどうにかまくり上げた。
「嘘でしょ…」
足は左手よりもひどかった。
右足は膝の下まで、左足はふくらはぎの真ん中程まで、硝子になっていた。
ずっとベッドに横たわっていたので、足が動かなくなっているのに気付かなかったのだ。
これではもう歩けない。
『変身』の主人公、グレーゴル・ザムザは最期、父親の投げた林檎が背中にめり込み、体が動かなくなっていく。
私は投げられた林檎にすら気が付いていなかったのか。
時計を見る。
二時半を少し過ぎた頃だった。
このまま、同じ速度で硝子化が進むとも限らない。
そんな小さな希望を、いつまでも持ってはいられない。
私はナースコールを硝子の手で押した。
三十秒もしないうちに、昼食を持ってきてくれた看護師さんがやって来た。
「どうしたのぉ?」
私が瀕死でないことを一目で確認すると、柔らかい表情でそう言った。
「お母さんと話したいんですけど…今、スマホ持ってなくて…」私はできる限り自然な笑顔で言った。
「そっか、ちょっと待っててね」
看護師さんはそう言うと部屋を出て、一分ほどで母を連れてきた。
「○○ちゃん、どうしたの?」
看護師さんが出て行ったあと、丸椅子に座って母は言った。その表情からは、ひどく怯えていることが分かる。
「大したことじゃないんだよ」私は笑う。
「海に行きたいの」
私の言葉を母は上手く飲み込めず、「海?」とだけ呟く。
「そう。海に行きたいの。出来るだけ早く」
「じゃあ、明日にでも先生に言って出かけましょうか」母は優しい笑顔で言う。
「ねえ、今からじゃあ、ダメかな?」
母はきょとんとした表情をした。
「そんなに…急いでるの?」
母の表情がしだいに曇りだす。
「うん」
私の答えに母はすべてを理解したかのように、立ち上がって部屋を出て行った。
五分ほど待つと、車いすを持った看護師さんと母が戻って来た。
ほとんど会話は無かった。
車いすに乗るために、「気を付けて」と言われただけだ。
車いすに乗るのは初めてだった。存外乗り心地はよく、座っているだけで移動できるので、少しの違和感はあっても便利であった。
母の車で、看護師さんも付き添って海まで行った。
気まずい沈黙を貫く母の後ろで、私はいくつかの好きな曲を流した。
五曲目が終わるころ、ビルの隙間から水平線が見えた。
「海…」
無意識に言葉にしていた。
三月の海はまだ冷たかった。
春霞の水平線はぼんやりとしていて、思い描いたものとは違っていた。
母は車いすから手を離すと、静かにその場にしゃがみこんだ。
私は浜辺に立とうとする。
膝から下は当然動かないが、立つだけなら簡単だった。硝子の足は砂の感触を伝えてくれず、宙に浮いているような錯覚をする。
一歩、右足を前に出す。
不器用な歩き方だが、前に進むことは出来そうだ。
一歩、一歩。
左足、右足。
海は目の前にあるはずなのに、ずっと遠くにあるような気がした。
一歩、一歩。
左足、右足。
段々と、硝子の足で歩くのにも慣れてきた。
一、ニ、一、二。
左、右、左、右。
看護師さんは泣きじゃくる母の横にいて、背中をさすっていた。
一、二、三…
左、右、左…
海はもう目の前にあった。
波が足にかかったが、その冷たさも、柔らかさも感じない。ただ、波に触れられた振動が時間差で脳に届くだけだ。
海のほうから、冷たく吹き付ける風は、潮の匂いがした。髪が盛大にゆれた。
傾いた太陽の光はどこか弱々しく、長く伸びた影はどうにも不吉に見えた。
私は走った。
波際を走った。
走れていたかは分からない。ただの速足よりも遅かったかもしれないし、右足と左足が交互に出ていなかったかもしれない。
それでも、私は走った。
硝子の部分が奇妙な音をあげていた。
砂浜を踏んだ振動で足にひびがはいっていく。
腕からもきしんだ音がする。
風が心地よかった。
どこからも海の匂いがする。
海水がばしゃばしゃとはねる。
私は叫んだ。
何と叫んだかはおぼえていない。
意味なんて無かった。
声の限り叫んだ。
大声で叫んだ。
そして、走り続けた。
キーンという音がして、不意に硝子が割れた。勢いが止まらず、私は砂浜に顔から倒れた。
目に砂が入って痛かった。口にも入った。とてもしょっぱい砂だった。
波が私の上に覆いかぶさっては、すぐに去っていく。
母の声が遠くに聞こえた。叫んでいるような甲高い声。
私は手をついて起き上がろうとしたが、手が動かなかった。
いや、手がなかった。
右腕が肘の下から無くなっていた。
硝子の部分に感覚はないと解っていたが、割れても気付かないとは思っていなかった。
手首から先のない左手だけで、何とか体を起こそうとしたが無理だった。
倒れたまま、海を眺める。
海水が眼に入るが、それも仕方がないと割り切った。
真っすぐだと思っていた水平線は、少しだけ弧を描いていた。
母と看護師さんが叫びながら近づいてきた。
「ごめんなさい」私がそう言うと、母は涙を拭って「いいのよ」と答えた。
母と看護師さんに抱き起されると、割れて飛び散った硝子が見えた。
大きな塊と、小さな塊。それから、粉のようになったもの。
濡れた砂の上で、太陽の光を反射してきらきらひかっていた。
看護師さんは私を車いすに乗せると、その硝子を小さな袋に集めていた。
「○○ちゃん」母の声がした。「楽しかった?」
母の顔は見られなかったが、泣いているのは簡単に分かった。
「うん。とっても楽しかった」
何かが頬を伝った。
自分の涙と気付くのに時間がかかった。初めは顔に着いた海水だと思ったけど、視界がぼやけていくうちに涙だと気づいた。
「楽しかった」
私はもう一度言う。
「そっか、そっか」
母は消えそうな声で答える。
太陽が沈むまで、私たちは無言で海を眺め続けた。
病院に戻った後、先生は目を丸くして私の身体を見た。
私は両足のひざから下と、右手の肘から先。それから、左の手のひらを無くしていた。
「なんてことを…」
先生の苦しそうな表情を見ると、少し申し訳なくなった。
それからというもの、私は自由に立ち歩いたり物を書いたり出来ないので、母と意味もなく雑談するか、ベッドの上に一人でだらだらとしているだけだった。
暇ではあったが、この暇の原因は自分にあるので文句は言えなかった。
ときどき、学校の友達や先生が来た。
特に親しい関係ではなかったのだが、社交辞令くらいの思いで来てくれていたのだろう。もしくは、単に硝子になった私を見てみたいという好奇心があったからかもしれない。
海に行った話をすると、皆は笑ってくれた。
「○○ちゃん」母の声が聞こえた。
私は返事をしようとしたけど、声が出なかった。
「今日はいい天気だよ」
窓を開ける音がして、生ぬるい風が顔にかかる。
空気が喉から漏れる音がする。
私の思考はいつも雲がかかっているようで、簡単なことも思い出せなかったり、言葉の意味を理解できなかったりする。何か大事なことを忘れてしまっていそうで、いつも不安になる。
海に行った日から何日たっていて、私はどうなっているのか。何もわからない。
でも、段々とどうでもよくなる。
「お母さん」
そう言ったつもりだった。
しかし、擦れた息が漏れるだけで、声にすらなっていなかった。
母が私のほほをなでるのが分かる。
漠然とした安心感が、脳を埋め尽くす。
私は眠たくなった。
「おやすみ」
言えたかどうかは分からない。
だけど、そんなことどうでもいいくらい私は眠たかった。
「○○ちゃん…?」
さっき、何と言おうとしていた?
目も見えず、声も出せなくなった娘の顔を見つめながら考える。
海で走り回ったあの日から、娘はいつもぼんやりとしていた。
ときどき、自分の名前すら思い出せないこともあった。
主治医の先生は、硝子化が神経か脳細胞をどうにかしているのだろうと言っていた。難しい言葉が多かったから、詳しくは分からない。
海に行ってから最初の一週間は、まだしっかりしていた。
はきはきと喋っていたし、記憶力もあった。
学校の友達が来ると、いつも海に行った話を聞かせていた。その友達は気まずそうに引きつった笑顔をするだけだったけど、娘はずっと楽しそうだった。
二週間がたったころから異変が見て取れた。
よくしてくれる看護師さんのことを忘れていたり、病気のことを忘れていたり。それから、言葉遣いや振る舞いが子供っぽくなった。
視力も悪くなっていた。
部屋が暗いと、いつも言っていた。
そのたびに、私は適当なことを言ってごまかした。
彼女は記憶力も衰えていて、いつの日も海に行ったのが昨日だと思い込んでいた。
四週間がたったころ、娘は声すら出せなくなっていた。
もはや硝子でない部分はほとんどなく、まともに口を動かすことも出来ていなかった。
それでも、何とか意味の取れる言葉はあった。
「おはよう」「わたし」「うみ」そして、「おかあさん」
擦れた息の様だが、よく聞いているとどれも少しずつ違う。母音しか声にできないようだから、初めの頃は読み解くのに時間がかかった。
娘は誰かが部屋に入ると、何時であろうと「おはよう」と言う。
そして、「わたし」と「うみ」を交互に言い続ける。
私が彼女のほほや髪の毛を触ると、「おかあさん」と言う。
焦点のあっていない目を見ると、いつも心が痛んだ。
それでも、自分を母と認識してくれることが嬉しくて堪らなかった。
そして今、娘は安らかな顔で眠りについている。
私は彼女の髪をなでる。髪の毛ですら硝子化は進んでいて、なでるたび、ぱきぱきと音が鳴る。
さっき、彼女は「おはよう」でも「おかあさん」でもない言葉を発していた。
何かを訴えるように声を発することはよくあったが、言葉ではなく、あくまでただの音だった。
発せられた声を思い出す。
はじめに「お」。
次に「あ」。
最期は「い」だったような気がする。
「あ」と「い」の間に何か言おうとしていた気はするが、聞き取ることは出来なかった。
たぶん四文字。
「お」から始まる四文字の言葉を思い浮かべる。
「おはよう」は違う。「おはよう」と言うとき、彼女は「あ」と「お」の二音しか発しない。
「おにぎり」はもっと違う。
「おやすみ」はどうだろう。
強引かもしれないが、眠りにつく前に話す言葉と思えば筋が通っている。
「おやすみ」私は娘のほほをなでながら言う。
なんだか嫌な予感がした。
最期の言葉が「おやすみ」だなんて、ドラマの中だけであると信じていたい。考えないでおこうと思っても、娘が目を覚まさないのではと疑ってしまう。
怖い。
ベッドの下に落ちていた紙を思い出す。
ぐしゃぐしゃに握られていたが、不器用な文字で小さな夢がいくつか書かれていた。
その小さな夢ですら、叶えさせることが出来なかった。
娘の顔を見る。
右のほほの一部以外は全て硝子になっていたが、表情はあまりに穏やかだった。
少しだけ空いた口から息が漏れる音がする。
いつのまにか、目に涙がたまっていた。
終わりかけの春の光の溢れた部屋で、嗚咽が小さく響いた。
「みんな、硝子病って知ってる?」
教壇に立つ若い女性が、三十人ほどの子供に向かって言う。
「しってる」と幼い声が教室のいたる所から返ってくる。
「説明してくれる人」そう言って、女性は小さく手を上げる。
すると、五、六人の子供が手上げた。
「じゃあ、オイカワ君」
名前を呼ばれた男の子は、大きな返事をして立ち上がる。
「ガラスビョーは、体がガラスになるびょーきです」
自信満々な大きな声で彼は言う。
「正解!」
女性の声に答えた男の子は嬉しそうに席に座る。
「オイカワ君は硝子病になったことある?」
「ないです」男の子は座ったまま答える。
「でも、いとこのきょーすけクンはなったことがあります」
「なるほどぉ」女性は大げさに頷く。
「このクラスで、硝子病になったことがある人、手を挙げて」
女性がそう言うと、十人くらいの子供が手を挙げた。
「硝子病って、今では身近な病気だけど、少し前までは治すことが出来ない病気だったって知ってる?」
女性はまじめな顔をして言う。
教室が一瞬、静かになる。
「今日は硝子病についての勉強をします」女性は笑って言う。
「でもその前に、知っていて欲しい人がいます」
そう言うと、女性はスクリーンに一枚の写真を映した。
一見すると、ベッドの上に硝子の塊が置いてあるように見える。
しかし、よく見るとそれは、安らかな表情の少女の顔だった。
「この写真に写っているのは○○さんという人です。この人は、硝子病がまだ治せなかった時代の人です」
教室の何人かの子供は辛そうに顔を手で覆った。
「硝子病を治すことが出来なくて、最期は硝子になってしまいました」
子供たちはみんな、下を向いていた。
「○○さんは、全身が硝子になるまで、この病気の研究に協力していました。そのおかげで、今の治療法が見つかったのです」
女性がそう言うと、子供たちは顔を上げる。
「じゃあ、もし○○さんがいなかったら…」
教室の真ん中の席に座る女の子が、小さな声でそう言った。
女性は静かに頷いた。
「今日は、硝子病と一緒に○○さんのことをよく知って欲しいの」
女性はそう言うとタブレットを操作して、スクリーンに教科書の画像を映した。
この教室からずっと離れた場所にある小さな家で、硝子の少女は、太陽の照りつける海を進む夢を見ていた。