気まずい沈黙を貫く母の後ろで、私はいくつかの好きな曲を流した。
 五曲目が終わるころ、ビルの隙間から水平線が見えた。
 「海…」
 無意識に言葉にしていた。
 三月の海はまだ冷たかった。
 春霞の水平線はぼんやりとしていて、思い描いたものとは違っていた。
 母は車いすから手を離すと、静かにその場にしゃがみこんだ。
 私は浜辺に立とうとする。
 膝から下は当然動かないが、立つだけなら簡単だった。硝子の足は砂の感触を伝えてくれず、宙に浮いているような錯覚をする。
 一歩、右足を前に出す。
 不器用な歩き方だが、前に進むことは出来そうだ。
 一歩、一歩。
 左足、右足。
 海は目の前にあるはずなのに、ずっと遠くにあるような気がした。
 一歩、一歩。
 左足、右足。
 段々と、硝子の足で歩くのにも慣れてきた。
 一、ニ、一、二。
 左、右、左、右。
 看護師さんは泣きじゃくる母の横にいて、背中をさすっていた。
 一、二、三…
 左、右、左…
 海はもう目の前にあった。
 波が足にかかったが、その冷たさも、柔らかさも感じない。ただ、波に触れられた振動が時間差で脳に届くだけだ。
 海のほうから、冷たく吹き付ける風は、潮の匂いがした。髪が盛大にゆれた。
 傾いた太陽の光はどこか弱々しく、長く伸びた影はどうにも不吉に見えた。
 私は走った。
 波際を走った。
 走れていたかは分からない。ただの速足よりも遅かったかもしれないし、右足と左足が交互に出ていなかったかもしれない。
 それでも、私は走った。
 硝子の部分が奇妙な音をあげていた。
 砂浜を踏んだ振動で足にひびがはいっていく。
 腕からもきしんだ音がする。
 風が心地よかった。
 どこからも海の匂いがする。
 海水がばしゃばしゃとはねる。
 私は叫んだ。
 何と叫んだかはおぼえていない。
 意味なんて無かった。
 声の限り叫んだ。
 大声で叫んだ。
 そして、走り続けた。
 キーンという音がして、不意に硝子が割れた。勢いが止まらず、私は砂浜に顔から倒れた。
 目に砂が入って痛かった。口にも入った。とてもしょっぱい砂だった。
 波が私の上に覆いかぶさっては、すぐに去っていく。
 母の声が遠くに聞こえた。叫んでいるような甲高い声。
 私は手をついて起き上がろうとしたが、手が動かなかった。
 いや、手がなかった。