これでは、もうペンは握れない。
 急いで布団を、硝子の右手ではねのけ、ズボンの裾をどうにかまくり上げた。
 「嘘でしょ…」
 足は左手よりもひどかった。
 右足は膝の下まで、左足はふくらはぎの真ん中程まで、硝子になっていた。
 ずっとベッドに横たわっていたので、足が動かなくなっているのに気付かなかったのだ。
 これではもう歩けない。
 『変身』の主人公、グレーゴル・ザムザは最期、父親の投げた林檎が背中にめり込み、体が動かなくなっていく。
 私は投げられた林檎にすら気が付いていなかったのか。
 時計を見る。
 二時半を少し過ぎた頃だった。
 このまま、同じ速度で硝子化が進むとも限らない。
 そんな小さな希望を、いつまでも持ってはいられない。
 私はナースコールを硝子の手で押した。
 三十秒もしないうちに、昼食を持ってきてくれた看護師さんがやって来た。
 「どうしたのぉ?」
 私が瀕死でないことを一目で確認すると、柔らかい表情でそう言った。
 「お母さんと話したいんですけど…今、スマホ持ってなくて…」私はできる限り自然な笑顔で言った。
 「そっか、ちょっと待っててね」
 看護師さんはそう言うと部屋を出て、一分ほどで母を連れてきた。
 「○○ちゃん、どうしたの?」
 看護師さんが出て行ったあと、丸椅子に座って母は言った。その表情からは、ひどく怯えていることが分かる。
 「大したことじゃないんだよ」私は笑う。
 「海に行きたいの」
 私の言葉を母は上手く飲み込めず、「海?」とだけ呟く。
 「そう。海に行きたいの。出来るだけ早く」
 「じゃあ、明日にでも先生に言って出かけましょうか」母は優しい笑顔で言う。
 「ねえ、今からじゃあ、ダメかな?」
 母はきょとんとした表情をした。
 「そんなに…急いでるの?」
 母の表情がしだいに曇りだす。
 「うん」
 私の答えに母はすべてを理解したかのように、立ち上がって部屋を出て行った。
 五分ほど待つと、車いすを持った看護師さんと母が戻って来た。
 ほとんど会話は無かった。
 車いすに乗るために、「気を付けて」と言われただけだ。
 車いすに乗るのは初めてだった。存外乗り心地はよく、座っているだけで移動できるので、少しの違和感はあっても便利であった。
 母の車で、看護師さんも付き添って海まで行った。