世界が眠るとき、ぼくたちは余命の明日を生きる

 無色。無音。無臭。
 ここにはなにもない。

 私には、なにもない。

 あるのは、今にも消えそうな命の鼓動と、精一杯流した一粒の涙だけ。だけどこの涙は、誰にも届かない。

「大丈夫よ、美和。あなたの病気は必ず治るから」

 透明なガラスの向こうでお母さんが笑う。ハンカチを持つ手が震えており、時折見せる深い悲しみの表情を隣に立つお父さんの肩で隠して、すぐにまた笑ってみせる。
 ごめんね。
 もう、お母さんの声が聞こえない。だけどこれまで幾千回と言われてきた謝罪の言葉は口を見ただけでわかってしまう。

 謝らないでって、いつも言ってるのに。

 そう言いたいのに、言えない。本当のことは、なにも言えていない。
 深いところへと落ちていきそうな意識を必死に呼び起こし、言葉を紡ぐ。しかし、声にならないまま、お父さんの声だけがはっきりと聞こえた。

「おやすみ。美和」

 そうして私は、眠りについた。
 白色のナースウェアを身に纏う自分にもようやく見慣れてきた。廊下に設置された大きな姿鏡に映る自分を見ていると、腕時計型のデバイスからアラーム音が響く。

 ぼくは慌てて消毒液臭い病棟を抜けて、隣の特別棟へと赴く。

 そこは死が迫っている患者に対し、苦痛を最小限に抑える『ホスピスケア』が行われている建物だ。来院者や入院患者で常に騒がしい病棟とは違い、ここはいつも静かだ。

 まるで、時間が止まったように。

 長い廊下の先にある奥の病室の前に立ち、軽くノックする。返事はない。
 もしかして寝ているのかも。

「失礼します」

 厚い扉を引き開けると、ベッドに腰掛け窓の外を覗く少女の姿があった。窓は少しだけ開いており、吹き込む春の風が薄い肌色のカーテンと、少女の黒い髪を揺らす。
 ぼくに気がついていないらしく、一度こほん、と咳をすると少女はすぐに振り向いた。少し痩せているが、一見どこにでもいる『少女』だ。

「はじめまして。担当の小野寺真吾です」
「……どうも」

 タブレットを操作し、少女のカルテに目を通す。

「函館美和さん。函館って珍しい名字だね」
「まぁ。よく北海道出身? って聞かれます。行ったことないけど」
「ホッカイドウ?」

 聞きなれない言葉の響きに、記憶が高校時代の教室へと導かれる。
「あー、歴史の授業で聞いたことあるよ」

 卒業してからまだ三年しか経っていないのに、はるか昔のことのように思えてしまう。そもそもあまり高校に通っていなかったので印象が薄いという理由もあるが。
 眉根を寄せる函館さんの顔を見て、ぼくは我に帰る。

「えっと、生年月日と年齢は言える?」
「二〇〇五年九月一〇日生まれの十七歳です……あの、なにか?」
「べ、別に。なんでもないですよ」

 そう言って頬の内側の肉を噛む。そうしないと噴き出してしまいそうだから。別に、函館美和に対して笑っているわけではない。ただ、目の前に広がっている珍妙な光景が可笑しいだけだ。
 ぼくは何度か深呼吸して落ち着くと、そのほかの函館さんの情報を流し読んでいくが、一つ未記入の欄があった。
 それは函館さんの余命の欄だ。

「それで函館さんはあと何年、生きられるんですか?」
「は?」

 嫌悪をあらわにした函館さんは立ち上がるが、すぐにふらついてベッドに座り込む。

「入院している人に対して失礼じゃない? 健康な人にはこの気持ち、わかんないでしょ」

 刺々しい口調の函館さんを見て、ぼくは彼女の怒りの理由に思い当たる。

「あぁ、まだ未登録なんですね」
「……登録?」

 函館さんが目を覚まして一週間は経っているはずだが、正規の看護師からはなにも説明されていないらしい。
 そういう情報も逐一教えて欲しいが、あまり強くは言えない。それに、その辺りのケアも医学的知見を持たないぼくたち、アシスタントナースの仕事だ。

 アシスタントナースとは正規の看護師から受けた仕事(主に雑務)をこなしながら、患者の精神的ケアを任せられる仕事だ。

 といっても医療行為や介護、介助などは今の時代、全て機械任せなのでぼくたちの役割は患者の見守り係、というかほとんど喋り相手だ。
 それにしても、一人で患者を受け持つなんてまだまだ先のことだと思っていた。アシスタントナースのボランティアとして働き始めてまだ二ヶ月しか経っていないのに。
 まぁ、仕方ないけど。

「あの!」

 函館さんは手をあげるが、患者衣の袖がずり落ちるのに気づいてすぐに手を下ろす。少しだけ見えた函館さんの腕は年頃の少女に比べると、やはり細い。

「さっきから微妙に会話が噛み合ってない気がするんだけど」
「函館さんが眠っていた間の歴史の話はまた後でします」
「歴史って」
「それと、さっきの余命の話なんですけど」

 ぼくはデバイスを操作し、液晶画面の中のLCTと書かれたアイコンをタップする。すると、デバイスからレーザー状に光線が発射され、空中に液晶同様の画面が表示される。

 寿命算出技術。
 通称:LCT(Lifespan Calculation Technology)

 そこにはぼくの余命が書かれている。

「ぼくはあと一年です」
 ブラインドを下ろし、部屋の電気を消す。
 真っ暗な部屋の中でぼくはタブレットを机に立てかけ、プロジェクター機能を使って壁に画像を写し出す。

「なに、これ」

 照らされた函館さんを横目に、ぼくは冷静に真実を伝える。

「これが今の日本地図です」

 そこに映された日本列島は彼女が生きていた時代のものとはかけ離れている。
 北海道はほとんどが水没し、太平洋側の本州も輪郭が海でごっそりと削られている。
 ぼくも歴史の授業で以前の日本列島を見たとき、かつての日本はこんなにも大きかったのかと驚いた。

「半世紀前に起きた太平洋火山の噴火が原因です」

 ぼくは今に至るまでの日本の歴史をざっくりと説明する。
 噴火による地震、そして大津波によって大勢の人々が居住区を失ったこと。
 彼らの移住先として白羽の矢が立ったのは九州だったこと。
 九州では人口増加に伴う都市開発が急速に進み、経済も発展したことから、今の日本の首都はぼくたちがいる博多になっていること。
 それから……。

「ちょっと待って」

 函館さんは両方の手のひらを見せて、ぼくを制す。

「あの、今更な質問で悪いんだけど、私どれぐらい眠っていたの?」
「えっと……」

 ぼくはデバイス上のデータを確認するふりをして、函館さんから目をそらす。

 看護師さん、伝えてないのか……。

 当時、函館さんのように病気の根治が不可能だった患者は未来の医療に望みを託し、コールドスリープという人体を時間経過による老化から防ぐ装置に入った。
 長い眠りから覚めた患者に過ぎ去った時の流れを説明する時、ショックから取り乱す場合が多い。

 だけど、患者のケアをするのがぼくの仕事だ。

 ぼくは小さく覚悟を決めて、改めてカルテを確認する。
 函館さんがコールドスリープに入ったのは二〇二二年。つまり。

「九十七年です」
「え?」
「函館さんは九十七年間、眠っていました。今は西暦二一一九年です」
「そっ、か……」

 函館さんは一瞬目を見開いたが、すぐに受け入れたのかそのまま窓の外を眺める。
 取り乱さないのか、とぼくは静かに緊張を解き、説明を続ける。

「函館さんは東日本大震災って知っていますか?」
「知ってるもなにも。まぁ小さかったからなんとなくだけど」
「この噴火は東日本大震災の約五十倍の被害だと言われている」
「五十、……倍?」

 地震による建物の倒壊や、土砂崩れ。そして津波とライフラインが停止したことによって亡くなった人も大勢いたが、それ以上に多かったのは、行方不明者だった。

「それをきっかけに生まれたのがLCT。簡単に言えば人の寿命を計算する人工知能だよ」

 タブレットをデバイスと接続し、壁に投影さえる小さな日本地図の画面からぼくのLCTの画面へと切り替える。
 真っ青な画面には白い小窓がいくつも羅列されており、そこにはぼくの名前や生年月日などあらゆる情報が表記されている。

「その人の遺伝子情報から今後発症する病気や、生活環境から予測される事件や事故、または災害に遭う確率までを総合的に判断する。言ってしまえばその人の未来の予測ができるんです」
「未来の予測って。そんな占いみたいな」

 函館さんの言葉を聞いて、ぼくは大昔の小説家を思い出す。
 小説家曰く、高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかないという。
 百年前に生まれた函館さんにとっては、ぼくには当たり前のLCTも非科学的でスピリチュアルなものに思えてしまうのだろう。

「LCTが寿命を外したことは過去にありません。まぁこの世に絶対はないから『何千兆分の一』とかって表現されるけど」

 ぼくはなんとなく画面をスクロールしていくと、途中で函館さんが「あ」と声を漏らした。その画面にはあなたの余命という欄が表示されており、はっきりと「一年」と表記されている。

「……病気、なの?」
「わかりません。LCTは死の原因までは教えてくれないので。ただ、ぼくは一年後に死ぬってだけです」

 ぼくはタブレットを閉じ、締め切ったカーテンを開く。部屋の中に突然、強い昼間の陽光が飛び込み白い病室を輝かせる。

「じゃあこれから、函館さんもLCTに登録するために手続きを」
「いや」

 函館さんはぼくから顔をそらす。ぼくは函館さんの行動の意味がわからなかった。

「どうしてですか?」
「当たり前でしょ。余命なんか知ったら楽しく生きられないじゃん」
「余命を知っておくのはいいことじゃないですか。自分の人生を後悔なく生きることができるし、家族や大切な人が突然深い悲しみに突き落とされることもないですし」
「家族も大切な人ももういないから」

 函館さんは感情のない声で呟いた。

 しまった。

 長期のコールドスリープから目覚めた人に対して、家族や友人に関する話をする際は細心の注意を払うべきだ。
 なぜなら見知った相手が見知らぬ老人になっている場合や、大概はすでに亡くなっているからだ。
 罪悪感で心臓がぎゅっと苦しくなるが、函館さんは「それにさ」とやけに明るい調子で続ける。

「人は明日死ぬかもしれないから、頑張って今日を生きるんでしょ」

 春の日差しを受けてほのかに輝く函館美和を見て、なぜかぼくはほんの少しだけムカついた。

「……前時代的な意見ですね」
「百年前に生まれたので」

 ぼくの嫌味を知ってか知らずか、函館さんは片方の口角を釣りあげ、ニヤリと笑ってみせた。
「小野寺! 遅い!」

 大勢の人が行き交う駅でも、函館さんの姿はすぐに見つけることができた。

「なんですかその格好?」
「なにって、普通の制服だけど」

 函館さんはどう? とくるりと一周してみせる。紺色のスカートがふわりと膨らみ、真っ白なシャツの上で赤いリボンが跳ねる。おばあちゃんのアルバムで見たことがある、いわゆるセーラー服というやつだ。

「そんなの昔のドラマでしか見たことないですって。それに函館さんは学校通ってないでしょ」
「だから学校に通わせろって言ってんの」
「そのためにはLCTに登録しないといけなくて……」
「あ! なにあれ、超おいしそー」

 函館さんは風のように人ごみの中へするりと走っていく。

 あれから二週間が経ったが未だに函館さんはLCTに登録しようとしない。
 現代日本において、LCTの情報はそのほかの社会制度にも関わるため登録が必須なのに。
 今日の外出だって本来なら目覚めて間もない函館さんは認められないところを、LCTに登録するという条件で特別に病院から許可をもらったのに。
 しかも病院近くの散歩のための外出だったはずが街まで行かせろをごねられ、挙句にぼくにもついてこいと言い出して。

 もしかして、遊ばれてる?

「小野寺はどんな高校生だったの? あんまり通ってなかったとか言ってたけど。もしかして不良だったとか?」

 家族連れが行き交うショッピングモールを歩く函館さんは不意にこちらへ振り返る。

「別に、もうすぐ死ぬのに勉強しても意味ないなとか思って」
「じゃあなんで今、私の看護師やってるの?」
「看護師じゃなくてアシスタント……」
「なんでもいいから。看護師でも医者でもさ」

 全然違うと反論したいが、いうだけ無駄なこともわかっている。

「別に。暇だったからです」
「なんだそれ」

 変なのー、と函館さんは再び前を向いて歩き出す。函館さんの背中に向かってぼくはブツブツと語る。

「ある程度やりたいことは全部やったんで。美味しいものも食べたし、いろんなところ旅にも行ったし。だから残りの一年は社会貢献? 的な」
「あれ、これって私が入ってたコールドマシーンの機械じゃない?」

 気がつけば、函館さんは家電量販店のショーケースの前に立っていた。

 聞いてないのかよ。

 函館さんの隣へ立つと、中には真っ白な縦長の箱が置かれていた。

「てか安くない? それに私が入る時とかコールドスリープの成功する確率は何千兆分の一とか言われてたのに」
「函館さんが眠っている間に技術が進歩したんですよ。入っている間は老けないからアンチエイジング的な感じで割とどの家にもあります」
「ふーん」

 棺桶みたいだね、と冷たくつぶやいた函館さん。
 僕は視線を向けるが函館さんの顔はショーケース越しにはよく見えなかった。

 ぼくたちはそれから近くのワクドナルドに立ち寄った。
 黄色のWのマークが描かれた赤い看板を見て函館さんは興奮していたが、実際に商品を前にするとなんだか微妙そうな顔をしていた。
 もっとジャンキーなのが食べたかった、と言いながら函館さんはカロリー調整された牛肉を使用したハイブリットハンバーガーを口にする。ワクドナルドといえばヘルシーな商品が売りなのに、とぼくはあっさりとしたフライドポテトを口に放る。

「小野寺って好きな人いるの?」
「なんですか急に」
「いないんだ」
「いらないんですよ」

 訝しげに目を細める函館さんを無視して、ぼくは指についた油をナプキンでふき取る。

「ぼくは極力無駄なことはしたくないんです。恋愛なんて無駄の極致にあるものですから」
「うわ……」

 発言の意図を読み取らず、ただ引いている函館さんを見て、ぼくはつい言わなくてもいいことを言ってしまった。

「どうせあと一年で死ぬんだし、意味ないでしょ」

 ふと前を見ると、函館さんはじっとぼくの顔を見ていた。

「小野寺ってさ」
「なんですか」
「やっぱなんでもない」

 そう言って函館さんはカロリーオフのコーラをストローですする。

 しばらく互いに口を開かないまま無言の食事が続いた。
 ぼくは説明できない居心地の悪さから俯いていたが、ふと顔を上げると函館さんの食事が先ほどから全く減っていないことに気がついた。

「食べないんですか?」
「いや、お腹いっぱいでさ……」

 へへ、と軽い調子で笑う函館さんだが駅でセーラー服姿を見せびらかしていたときに比べて明らかに顔色が悪い。

「どこか調子が……」
「もったいないけど残しちゃおっか」

 ぼくの言葉を遮り、函館さんはトレイを持って立ち上がるが、そのまま床に倒れてしまった。
 転んだわけじゃない。マリオネットの糸が切れたようなだらりとした力のない倒れ方だった。
 食べかけのハンバーガーやコーラが床に散乱し、すぐに清掃ロボットが近づいてくる。

「函館さん!?」

 ぼくは慌てて函館さんを抱きかかえると、セーラー服がしっとりと濡れているのに気がついた。函館さんの体温はかなり高く、汗をかいている。
 すぐに救急車を呼ぼうとデバイスを押すと、突然アラームが鳴り響いた。

 ビー。ビー。ビー。ビー。ビー。

 ぼくのデバイスだけじゃない。客、従業員、店の外の通行人、テレビの向こうの生放送中のテレビキャスターも、全ての人間のデバイスが一斉に鳴り出した。

『LCTより通知が一件』

 ぼくは何も考えることができないまま画面を見ていると、自動的に通知の内容が表示される。

『あなたの寿命が書き換わりました』

「……は?」

 寿命が書き換わる? 
 こんな通知は初めてだった。

 すると突然、店内から悲鳴にも似た声が上がる。たちまちあたりが騒がしくなるなか、ぼくはLCTの画面を開く。
 余命の欄にはいつもと変わらず見慣れた『1』の表示があった。だからこそ、いつもと違う部分がすぐにわかった。

「1、ヶ月……?」

 それは、あまりにも突然の余命宣告だった。
 LCTの寿命の書き換えは全人類に起こった。

 隕石が衝突するのか、過去の大噴火のような災害が起こるのか、それとも未知のウイルスが蔓延するのか。
 様々な仮説が議論される中、答えは誰にもわからなかった。ただ、ぼくたち人類に残された余命はあと一ヶ月という事実だけが真実だった。

 政府は非常事態宣言を発令し、全ての人類に対しコールドスリープに入るよう通達を出した。その場しのぎな解決策ではあるがとりあえず、一ヶ月という余命を先延ばしにすることができるからだ。

「解熱剤と、ビタミン剤。これも……一応持っていくか」

 周りの人々がコールドスリープで眠りゆく中、ぼくはまだ病院の廊下を歩いていた。
 それは彼女、函館美和の治療をするためだ。

 あの日倒れた理由を、函館さんは疲れただけだというがぼくにはそうは思えなかった。しかし、医者も正規の看護士もみんな眠ってしまったいま、こうしてかじった知識で函館さんへの服薬を見つけるのが精一杯だった。

「なにしてるんですか?」

 函館さんの病室を開けると、函館さんはあの日のようにセーラー服を着て、カバンに荷物を詰め込んでいた。

「なにって、ここから出て行くんだよ」
「この間倒れたばっかりでしょ。精密検査も受けてないし、LCTにも登録しないまま。このままじゃ、函館さんはいつ死ぬかわからないんですよ」
「それが当たり前なんだよ。それが嬉しいんだよ」

 函館さんは手を止めず、なんでもないことのようにさらりと呟く。
 眉根を寄せるぼくの顔を見て、函館さんはカバンをパタンと閉じる。

「コールドスリープで眠る前、私は余命宣告を受けた。今の小野寺と同じ。一年って言われた」
「……え?」
「私はもともと体が弱くて、小さい頃からまともに学校にも通えなかった。それでもちょっとだけ回復して、これから高校入学するぞって時に余命宣告受けて即入院。いろんな治療を受けたけどダメで。その結果、こうして百年後の世界でひとりぼっちだよ。こんなことなら余命なんて知りたくなかった。余命なんてクソくらえだよ」
「じゃあ函館さんは、もう死んでもいいって思ってるの?」
「そうじゃないって。すごく生きたいよ」

 今までにないくらい、函館さんははっきりとした口調で言い切った。

「いつか、この世に絶対はないって言ってたけど、人は絶対に死ぬ。それだけは百年たっても変わらない。だけどさ、毎日自分の終わりを意識しながら生きるのなんてつまんないじゃん」

 そうでしょ、と函館さんはぼくを見る。
 その目はマクドナルドでぼくを見つめたときと同じものだった。生きることを諦めているぼくのことを。

「あんたを見てると、私は昔の自分を見てるようでムカつくんだよ」

 ぼくは、函館さんから顔を背け、過去に誰かから言われた言葉を繰り返すことしかできない。

「余命を知らないと、無駄な日々を過ごすことに……」
「無駄じゃないし、って言うか無駄でもいいじゃん」
「……え?」
「昼過ぎぐらいまで寝ちゃって、出かけようか家にいようか迷ってる間に結局夕方になって寝る時に今日一日なのにしなかったな、っていう日とかさ。友だちと勉強しようねって家に集まったけど結局全然勉強捗らなかった時間とか。そういう無駄に思える小さな日々だって私はかけがえないものだと思うし、大切な記憶だと思う」

 函館さんの言葉を聞いて、ぼくはふいに、昔のことを思い出した。それは小学校の頃、まだ自分の余命を知らない頃の記憶だ。

 その頃のぼくは毎日があっという間だった。

 友だちと外で遊んだり、ゲームをやりこんだり、テストで良い点を取ろうと頑張ったり、時間がいくらあっても足りなかった。
 だけど、中学に上がる頃、ぼくは両親から自身のLCTによる余命を知らされた。
 その時、ショックよりもまず、腑に落ちたことがあった。

 ぼくはもっと小さい頃、長い間入院をしていたことだ。

 生まれてすぐにLCTに登録され余命を受けたが、両親は我が子のあまりにも早い余命に抗おうと、たくさんの精密検査を受けさせた。
 ぼくはなにも知らされず、ただなにもないベッドに寝ているだけの毎日が退屈で、窓から見える他の子どもたちが楽しそうで、いつしか心を閉ざしていった。

 だけど、そこで出会った看護師さんたちがいつもぼくに構ってくれた。

「大丈夫。慎吾くんはきっと良くなるよ」
「お薬飲めて偉いね」

 検査の時も、それ以外の時にも病室に来て話し相手になってくれた。ぼくが薬の副反応で体調が良くないときは励ましてくれて、ぼくが元気なときは一緒に笑ってくれる。 
 そんな彼らに囲まれているうちに、いつしかぼくは、彼らのような看護師や医者になりたいと思うようになった。
 自分もいつか医者になりたい。退院時、花束を抱えたぼくは一生懸命、先生に伝えた。

「小野寺くんならきっとなれるよ」

 あの時の先生の言葉が、ぼくの生きる希望だった。だけどぼくは二十二歳までしか生きられない。
 勉強しても、高校を卒業して大学の医学部に進学しても、卒業する頃には余命が尽きる。医者になる前に死んでしまう。

 だったら、目指すだけ無駄じゃないか。

 そうしてぼくは、いろんなことを諦めてきた。

「じゃあね、小野寺さん。色々お世話になりました」

 カバンを掴んだ函館さんは深々と頭を下げる。

「どこに行くの?」
「別に決めてないけど、ここにいる理由もないし。みんな一ヶ月後には眠っちゃうんでしょ」
「函館さんは、コールドスリープに入らないの?」
「もう十分入ったよ」
「一ヶ月後に『死ぬ』かもしれないんだよ」

 チッチッチッ、と函館さんは人差し指を振りながら舌を鳴らす。

「私は一ヶ月後に『死なない』かもしれない」
「どうして」
「だってLCTに言われてないもん」
「……それは登録してないからだろ」

 函館さんは初めて会った時のように片方の口角を上げ、ニヤリと笑った。

 そうだ。
 あの時ぼくが函館さんにムカついたのは、余命を知り、後悔のない生き方をしてきたはずのぼくよりもずっとずっと、楽しそうだから。

「じゃあね」

 ぼくを通り過ぎ、扉に手をかける函館さんには、もはやなにをいっても無駄だろうと、函館さんと過ごした日々がぼくに教えてくれる。
 函館さんはここから出ていく。
 もう会うことはないだろう。
 函館さんの背中を見ながら、ぼくはまた諦めようとしていることに気がついた時、無意識のうちに声が出ていた。

「一緒に……」

 振り返る函館さん。まっすぐな函館さんの目からぼくは顔を背けることなく、じっと函館さんを見つめ返す。

「一緒に、北海道に行ってみませんか?」

 しんと静まる病室に、暖かな風が吹き込む。

「北海道って、もうないんでしょ?」
「……ないけど」
「じゃあ無駄じゃん」
「無駄、だけど……」

 そう。全ては無駄だ。
 どうせあと一ヶ月で死んでしまうし、人々が眠りにつきライフラインが止まった世界で移動するのは困難だし、そもそも北海道は海に沈んでいるし。
 それでもぼくは。

「函館さんと、一緒にいたいから」

 かつてぼくが憧れた医者や看護師のように、どんな時もそばにいる存在でありたいと思った。
 だってぼくは、函館さんのアシスタントナースだから。
 ぼくの発言が意外だったのか、函館さんは目を見開き、ボソボソと呟く。

「無駄の極致じゃ、なかったのかよ」
「は?」
「なんでもない!」

 函館さんは真っ赤になった顔をブルブルと揺らし、力強く扉を押し開く。
 なにか怒らせてしまっただろうか。

「あの、函館さ……」
「そうと決まれば急ぐよ! 明日死ぬかもしれないんだからさ!」

 函館さんはぼくの言葉をかき消すと、風のように駆け抜ける。

「待ってください!」

 ぼくは急いで更衣室へ向かい、リュックの中に着替えや、函館さんのための薬を詰め込む。すると腕に装着されたデバイスが目に入った。

 もう、いらないな。

 ぼくはデバイスを外し、函館さんの元へと急いだ。





 誰もいない更衣室で、静かにデバイスが震える。

『LCTより通知が一件』

 それからすぐに自動的に通知が表示される。

『あなたの寿命が書き換わりました』


 そのメッセージを読むものは誰もいない。
 顔を上げると、空を埋め尽くすほどの星が輝いていた。
 人は死んだら星になるという。だからこんなにも星が多いのかもしれない。
 
 病院を出て一ヶ月が経ったが、ぼくはまだ生きていた。

 しかし、ほとんどの人類はLCTの予測どおり余命のその日に死んでしまった。
 死因は窒息死。コールドスリープの故障が原因だった。

 焚き火の中で枝がパチっと爆ぜる。まぶたが重く、文字が霞む。
 ぼくは頬を叩いて意識を覚まし、改めて医学書を読む。
 これらは道中の本屋や、診療所などから拝借したものだ。

 ぼくは今、医療の勉強をしながら旅をしている。

 ほとんどの人類が死んでしまったが、どこかにぼくのように生き残っている人がいるかもしれない。そのために。

 しかし、本当にそんな人はいるのか。

 風がびゅうっと吹き、焚き火が消える。足先に感じていた火の温もりが消え、夜の寒さが背中に張り付く。赤黒く光る炭を見つめながら、ぼくは心が沈んでいくのがわかった。

 もうこの世界にはぼく一人しかいないかもしれない。
 それに、余命の一ヶ月が過ぎても、本来の余命だった一年まであと半年しかない。
 そちらの余命は正しいかもしれない。
 もしそうだったら、こんなことは全て無駄なのかもしれない。

 バチャン、と海に放り込まれた。
 あたりは何も見えず、自分の姿まで闇に溶けてしまいそうだった。口を開けると大きな空気の泡が飛び出し、身体は海底へと引き摺りこまれ、次第に息苦しくなる。

「無駄でもいいじゃん」

 張り裂けそうな胸の奥で函館さんの声がしたとき、今、自分は夢を見ているのだなと理解した。
 夢の中で夢だと自覚した瞬間、自分の周りの闇がみるみると剥がれ、感覚が現実に戻っていくのがわかった。
 だからぼくは、函館さんの手を握る。細くて、白くて、だけど誰よりも元気で、最後まで生きることを諦めなかった函館さん。

「あなたのおかげで、ぼくは本当の意味で生きることができているよ」

 函館美和への想いを胸に、ぼくは目を覚ます。

 
 

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