試合開始5分前。息を切らせた俺と真那花は、体育館2階、南山校側のギャラリーへ。そこにはベンチ入りできなかった1年生10人が、柵へ身を預けていた。
「花奏先輩来てくれたんすね!」
「待ってたっす、花奏先輩!」
顧問の胸ぐらを掴む修羅場を見せつけ、それ以来練習にも顔を出していない俺を一切咎めない後輩たちの優しさに、胸には温かいものが染みていく。
「遅くなって悪い。どうだ?やっぱり相手、強そうか?」
後輩ふたりが空けてくれてたスペースからコートを見下ろしそう聞くと、うーんと唸り声が返ってきた。
「そうっすねえ。さっきからあっちの4番、シュートばんばん決めてんすよ。まだ1本も、外すとこ見てないっす」
4番横井。去年1年生だったのにも関わらず、3年生の試合に出た男。
「横井、ねえ……」
ウォームアップ中の仲間には目もくれず、俺は横井だけを目に焼き付けた。彼の癖、特徴、得意な角度。1個たりとも見逃さぬように。
審判の笛の合図で両校のスターティングメンバーが出揃うと、館内が歓声で埋まっていく。
「哲ちゃんー!いっけー!」
無論、俺の隣の真那花は彼氏の名前を叫んでいた。
審判の手からボールが離れ、ゲームは始まる。
キュッキュッ。キュッキュッキュッ。
歓声に比例するかのように、シューズの音は激しくなる。
横井マークの哲也は、早速挨拶がわりの2点を決められていた。これは仕方ないと思う。ジャンプボールの運もあるし。
背番号7をもらった旬は、相手7番の巨体に少し苦戦しているようだった。もっと落ち着けば、身長差などカバーできるのに。
背番号8の圭介が、第1クオーターでプレーする姿は初めて見た。いい動きだ。さっきからパスを貰えない相手が燻っている。
「智久、こっちにあがれ!」
開始5分。早くも12点差がついて焦っているのか、哲也の指示は明け透けなうえ、遅い。
「あー、もう!」
小さく舌打ちをするのは隣の真那花。
横井に行き先を読まれた哲也のパスは、軽々カットされ奪われた。それを綺麗にネットへ潜らせるのも、また横井だ。
6対20。14点差。
その後は膠着状態が続き、第1クオーターは幕を閉じた。しかしインターバルはとても短い。第2クオーターはすぐにやってくる。
「はあっ、はあっ」
哲也は相当バテていた。
「はあっ、はあっ」
息をしているというよりは、酸素を取り入れているだけにも見える。焦れるは、俺。
「今すぐここから飛び降りて、試合してえ……」
がしがし頭を掻いて呟けば、真那花に肘で突つかれた。
「あはは。修斗が参加したら、楽勝?」
「あったりめーだろ。横井になんかボール触らせねえよ」
「うっわ。自信あるー」
俺は俺の不甲斐なさのせいで、ユニフォームを貰えていない。けれど闘うは俺の仲間だ。南山中学バスケ部の、大切な仲間。
「負けんなよお……」
行け、お前等。
思い虚しく次々決まるのは月仲校のシュートばかり。スパスパとネットが揺れては険しくなる仲間の表情。哲也は限界に見えた。
「へい圭介!」
圭介からのパスを受け取った哲也は、そのままリング真下へ向かって走り、レイアップシュートの体勢に入る。しかし横井は速い。哲也が地面を蹴る前に、ゴールと哲也の間に現れた。
「くそっ……」
下唇を噛む哲也には、すぐ後ろから走ってきた味方の姿が見えていない。そのままシュートまで持っていきたいのであれば、フェイントをかけ、横井の黒目を振る必要があるのに。
バシンッという音と共に哲也の手から離れたボールは、横井がすかさず自分のものに。
「哲也!なにしてんだ!」
顧問の怒号が、コートへ飛んだ。
南山校のディフェンスを嘲笑うかのように、ひょいとシュートを決めた横井。大して身長が大きくもない彼の自由気ままなステップに、サバンナを走り回るハイエナが過ぎる。
「もーやだ、見てらんないよ……」
真那花は頭を抱えていた。
もしもここで哲也が良いプレーをすれば、コーチは彼に期待し、次の大会で俺に4番を背負わせない?もし、もしもかっこいいゴールのひとつでも決めてしまえば、真那花はまた哲也に惚れ直してしまう?
巡る心。でも答えを出すよりも先に動いていたのは、己の唇だった。
「哲也なにやってんだよ!早くお前の得意なフェイント出しちまえよ!」
2階ギャラリーから突として聞こえてきた俺の声に、哲也は目をひと回り大きくさせていた。
「え、しゅ、修斗っ」
「哲也はフェイントが特技じゃねえか!なにいつまでも遊んでんだよ!早くいつも通り、騙しっこしてやれよ!」
「え……」
「気を付けろ横井ー!こっちの4番は、超ド級の嘘つきだぜー!」
横井は俺を刹那睨みつけると、腰を落とし、哲也のマークに専念した。
「知らなかった。哲ちゃんってフェイント得意なの?」
真那花はきょとんと聞いてきた。頬杖をつき、俺は鼻で笑う。
「いや。あいつのプレーは馬鹿正直すぎて、いっつも怒られてる」
「え、じゃあなんでそんなこと言ったの?」
「横井を惑わすため」
「惑わす?」
「哲也がフェイントを使う奴だって思い込ませるだけで、たとえ哲也の選択肢がひとつであっても横井は迷う。右か左か、パスかシュートかなんて、勝手に選択肢を作りあげてな」
「あー、なるほど」
「パスひとつにしたって1択だったのが4択に増える。それだけで、横井の黒目は忙しくなる」
だから、思い切ったカットなんてできなくなる。
コートの外からパスを受け取った哲也は左から抜け、速攻を狙った。横井は無論、ハイエナの足ですぐさま追いつく。スリーポイントラインまで来ると、コート右側を駆け抜けてきたのは智久だった。
「哲也!へい!」
智久の俊足はピカイチで、去年の体育祭では悔しいが、俺は僅差で1位を譲った。
どフリーな智久。普通ならどう考えたってここでパス。さっきまでの横井だったら迷わず哲也と智久ふたりが目に入るポジションをとるだろう。だけど彼は迷っているんだ。さっき失敗したレイアップシュートを、再び哲也が狙いにくるんじゃないかって、智久に向けられている哲也の目は、もしかしたら罠なんじゃないかって。
だって南山校の4番は、フェイントが得意だから。
シュッ。
弧を少しも描かず、まるで空中に敷かれたレールの上を走ったようなボールは、確実に智久の胸元へ。
「くっそ!」
シュートフォームを構えた智久に焦った横井は、ゴール下でジャンプをする。ついでに智久のマークマンも0.3秒遅れでやって来た。万歳ポーズの敵がふたり、リングを死守する。
でももう遅いよ。本当にフェイントが得意なのは智久だからね。
横井が目をひん剥いたのは次の瞬間。
「な、なに!?」
智久からのバウンドパスを逆サイドで受け取った哲也は、ガラ空きのパーソナルスペースでシュートを決める。会場が静まり返った時に響く乾いた音がひとつ、スパンッと鳴った。
「ナイッシュー!哲也!」
「智久!ナイスパス!」
第2クオーターはそこで終了。哲也と智久はハイタッチ。そしてふたり揃って俺を見上げると、それぞれの親指を立てて見せた。
鼻歌を奏でる月仲校の部員を見送れば、後片付けの時間。
「修斗っ」
パイプ椅子を両脇に4脚ずつ抱えた俺のもとに、2脚しか持っていない哲也がやってきた。
「もっと持てよお前」
「うるせぇ、疲れてんだよ」
「ご苦労さん」
「勝った時は疲れなんてどっか行っちまうのになー。負けると疲労がひかん」
最終クオーターが終わりスコアを見れば、25対63。やはり横井は強かった。
「修斗、顧問に謝ったの?」
「おう。さっきな」
「どうだった?許してくれた?」
「いや、なんか拍子抜けするほどあっさりだったわ」
「ははっ、結局そんなもんだよ。修斗いねーとこのザマだもん」
後輩といい、哲也といい、仲間は俺を責めはしない。
「なあ哲也」
パイプ椅子を地面に下ろし、俺はやにわに立ち止まる。
「ごめんな」
丁寧に頭を下げた俺を見て、笑うは哲也。
「はあ?なにが?」
「練習全然行かなくて。っていうか今日も出られなくて」
「気にすんな、そんな時もあんだろ。これからまた修斗とバスケできんならそれでいーよ」
その時俺が見たのは、太陽みたいな彼の笑顔。そして俺はこう思った。
高校行ってもこいつとバスケがしたいな、俺にはこいつが必要だなって。
だから俺は、哲也を崎蘭高校に誘った。すんなりと頷いた彼は、「じゃあ真那花も誘おうかな」と言っていた。
3人揃って合格をした時は、ジュースで延々と宴をした。
✴︎✴︎✴︎
「送ってくれてありがとう。明日も試合なのにごめんね」
炭酸のペットボトルを俺から受け取った真那花は、自宅マンションのエントランスでそう言った。俺の購入した牛乳は、もう常温に近い。
「明日、まじで観にくるの?電車30分くらいは乗るぜ?」
「観に行きたいと思ってるけど……」
「けど?」
「哲ちゃんが嫌じゃないかなあって、それだけがちょっと心配」
恋人に応援されて嫌な理由。瞬時に思いついたことを聞いてみる。
「喧嘩でもした?」
けれども彼女が次に言った言葉は、喧嘩をはるかに超えたものだった。
「え、哲ちゃん修斗になにも言ってないの?私たち、別れたんだよ」
途端に俺は、動揺した。何故ならば俺の前、哲也はあまりにも普通で、僅かな綻びだって見せてくれてはいなかったから。
「い、いつ?」
「5月」
「は?3ヶ月も前じゃねーか」
「そうだよ。だからなんで修斗知らないのよ。哲ちゃんからなにかしら言われてるでしょ?」
「知らねえよ。哲也から聞いてねぇ」
何故彼は俺に何も言ってくれなかった、どうして内緒に。
「ま、明日頑張ってね。一緒に行ってくれる子見つけられたら、応援行くから」
「お、おう」
「ばいばい」
帰り道。いつの間にやら蚊に喰われたくるぶしを掻きむしりながら、こう思う。
なあ哲也。お前が俺に真那花との別れを告げなかったのは、俺の気持ちに勘づいているからじゃないよな?
アラームが起動するよりも、母が俺を起こすよりも先に、斉藤哲也はやって来る。
「修斗ー!おっきろー!行くぞー!」
時刻は6時10分。早起き馬鹿だとしか説明がつかぬ。ベッドを出ずとも手が届く窓を開けて、掠れた声で、彼を詰る。
「うるせえよ!俺の部屋の前でこんな時間に大声出すんじゃねえ!」
しかし彼はピカンと笑う。
「だって俺常識あるもんっ。インターホンはさすがに鳴らしちゃ悪いだろ?まだ家族みんな寝てるかもだし」
「じゃあ7時くらいまで待てよ!」
「今日は7時3分の電車に乗らなきゃ間に合わんぞ」
2階に上がるのが面倒くさいとか言って、俺が1階のここを自室に選んだわけだけど、前言撤回しようかと本気で悩んだ。
「とりあえず入れてくれよーっ。こっから入っていー?」
けれど犬みたいな尻尾が見えれば、なんだか憎めない。
「ちょ、ちょい待て。今玄関開けっから」
「ういー」
30分後に鳴る予定だったアラームを止めて、俺はシーツから腰を上げた。
俺が身支度をしている間、哲也は俺の部屋で、ひたすらバスケ関連の動画を流していた。時折「なるほどな」とか「かっけえ」とか呟きながら。
今日も駅までの道で聞こえるは、雀の鳴き声。
「ふわあ、ねみぃー……」
怠そうに歩く俺と、背筋の伸びた哲也の影が並ぶ。
「俺は眠さ通り越して、覚醒中だな」
「哲也、何時に起きたの?」
「5時半」
「馬鹿じゃねえの」
「腹減った」
脳が歩けと勝手に指令を出してくるから足が動くだけで、何の指令も送られていない瞼はすぐに下がる。慣れ親しんだ地元の道は、目を瞑っても歩行可能。けれどそんなことをしている人間は見たことがないから、一応開けておく。
「かっゆ」
そんな重度の睡魔を葬ったのは、くるぶしに感じた強烈な痒みだった。立ち止まりそこを掻く俺に、哲也が聞く。
「蚊ぁ刺されたん?」
「おお。昨日の夜走ってたら、いつの間にか」
「次の日早いのに夜走ってんじゃねえよ。修斗のその夜型が、朝を辛くさせてるんだって」
昨晩を思い出せば、真那花の言葉も蘇る。
「哲也って、さあ……」
真那花と別れたの?
「なに」
「あのさぁー……」
「なんだよ」
真那花の「ま」の字が喉につっかえ出てこない。これは中学の時から変わらない。だから諦めた。
「……なんでもねえ」
「はぁ!?なにそれ気になる!」
しかもこの質問は、大事な試合の前にすることではない気もした。聞き出そうと懸命な哲也には悪いが、俺にはもう言う気がない。
「なんだよ言えよ修斗っ」
「えっと、ピーマンとナスどっちが嫌い?」
「ぜってーその話じゃねぇじゃん!」
「俺はナス」
「興味ねえよ!」
真那花と別れた哲也は、今日もいつもと変わらぬ態度。
会場である他校の体育館。朝早くの第1試合目にも関わらず、深間校の応援席は多くの人々で溢れていた。
「やっべ、俺等の席ガラガラじゃん。3年の保護者しかいねーぞ」
あわわと口元へ手を運んだ哲也に、俺は言う。
「少ないなら少ないでいいじゃん。そしたら試合に出ない1、2年も、応援席座れるし」
そこにはまだ、真那花の姿は見当たらない。
2年生でベンチ入りしたのは俺と哲也と、井頭学武。地元の異なる彼の名は、中学時代に耳にしていた。
「俺等出れんのかな?」
哲也が学武に聞くと、彼はこう答える。
「俺は出なくていいわ。新人戦であれだけこてんぱんにやれたのに、敵うわけがないし」
冷めた目で深間校の連中を見やる学武を見て、スタンスの違いを知った。勝ち目のない相手には挑みたくない。俺はそう、思ったことはない。
試合開始の9時が近付くにつれ、心臓が騒ぎ出す。緊張感に包まれて、ただならぬプレッシャーが押し寄せる。
崎蘭校の応援席は、徐々に隙間をなくしていった。その中の両親と目が合うと、ふたり共に振るのは手。
「アホか……」
俺はもう、小学生ではない。高校2年生の息子に手を振ったところで返されないと知っているだろうに。そう呆れるけれど、3年前と比べずいぶんと仲睦まじくなった両親にホッとする自分もいた。借金返済は、順調なのかもしれない。
パイプ椅子に座りバッシュの紐を最終確認していると、ユニフォームの上から部のTシャツを着た先輩8人が、俺の真上の光を遮った。見上げれば皆一様に、どこか覚悟を決めた顔。渡辺先輩が言う。
「花奏。引退の2文字はとりあえず忘れて、思いっきりやってこい」
「え……」
「今日を3年の最後にしちゃいけないとか余計なこと思わずに、いつも通りプレーしろ」
「で、でも」
点差が開けば、まだ先輩たちだってコートの上に立てる。この試合に勝てば、明日がある。だから必ず俺が、俺がなんとかしてみせます。
そう言おうとしたけれど、それは渡辺先輩の次のひとことで掻き消された。
「俺たちには、もう後悔なんかないんだって」
彼の隣。瞳を潤ませた古屋先輩が言葉を繋ぐ。
「一昨日の試合も、最後の花奏のシュートがなかったらどうなっていたかわからない。無名な市立の崎蘭高校がトーナメントを勝ち上がって、深間とやれること自体がすごいんだ。新人戦のくじ引きなんかじゃない。実力でもう1度、深間と試合ができるんだ。だからお前には本当心底感謝している。ありがとな」
ピピーとその時、笛が鳴った。
「試合1分前です!」
8時59分。相手選手たちがセンターサークルへと向かう。おもむろに立ち上がった俺の頭は、順番に8つの手が掻き撫でた。
「花奏、思いっきり楽しんでこい!」
闘魂みなぎるのはいつだって、こういう瞬間。
「はい!」
コートへ踏み出した俺の背中を、最後に中川原が押した。