「ごめんくださーい!」

早朝にもかかわらず、威勢の良い声が響いてきた。

多分女の人だと思われるその声は、元気の塊といった感じにハキハキしている。

こんな朝っぱらから、何?

寝ぼけ眼のままスマホの時計を見たら、まだ六時過ぎだった。まだ頭がぼへーっとしている。



「ごめんくだっさーい!」



威勢の良い声はさらに勢いが増してきた。

ん?ちょっと待って。うちの玄関から聞こえているのでは。でもまだ、眠いや。

布団に入りながらまやくんが行ってくれるかな、なんて思ったけれど、彼は相当寝坊助さんのようで、一向に部屋から出てくる気配はなかった。



「一ノ瀬さーん!まだ寝てんのー⁉︎」



声の主は出かけてしまった茂さんを呼んでいる。

でも、一ノ瀬は私の苗字でもあったから、私が呼び出されているような気もしなくもない。

スマホを確認すると、茂さんから深夜に何通かメッセージが届いていた。

【明日(もう今日か)来るお客さん、朝早くに到着するってさ!】

【ちなみにその人イラストレーターさん!ちょっとクセがあるけど、楽しい人だから色々話してみると良いよ!】

【よろしく!】

 いやいや、さすがに深夜に連絡されても気が付かないのですけど。それどころか、ざっくりと朝早くからって……何というか、茂さんらしいというか。

二階にも聞こえる声で「あれ?おっかしーな」なんて言っているお客さんをこれ以上叫ばせないよう、私は駆け足で階段を降りる。



「あ、一ノ瀬さん!朝早くからすみません!って、あれ?」



玄関には、背が高くてすらっとしている女の人が立っていた。

そんなに歳が離れているようにも見えないから、多分大学生くらいだろう。

後ろで一つにまとめられている長い黒髪は、短めのガウチョパンツと似合ってかなり涼しげに見えた。

背中にはバックパックを背負っていて、きっとそれがこの人のトレードマークなんだろうなと思った。



「おはようございます」

「あれ、ごめんなさい!もしかして場所間違えちゃった?」



私の顔を見るや、お客さんは慌ててスマホで現在地と住所を確認する。



「た、多分合ってます」

「へ?ちょっと待って。てことは一ノ瀬さんってこんな若い子と……」

「ちがっ……!私は茂さんの姪です」

「めいって言うの?可愛い名前!」

「そ、そうじゃなくて!一ノ瀬茂さんは私の叔父さんです」



威勢の良いお客さんにつられてしまったのか、私の声も普段の二割増になっている。



「そうだったんだー!朝早くからごめんね!あたし、椎名曖瑠って言います!よろしくー!」

「一ノ瀬沙希です」

「沙希ちゃんか。可愛いねー!」



全身を隈無く眺められながら言われたから、ちょっと勘違いしてしまいそうになった。名前が、ですよね。

案外私は明るい人との相性が良いらしく、椎名さんのぐいぐい来るテンションは、テンポが良くて苦手じゃないなと思った。

でも、こう一気に距離を詰められるところは、誰かに似ているような。

茂さんが急に出張に出かけてしまったことを教えると「あの野郎!それくらい連絡しろよ!」なんて言っていたから、この二人は相当仲が良いんだなと勝手に解釈しておいた。



「えっと、お部屋なんですけど、ちょっと待ってください」



この家のことは全てまやくんに任せっきりだったから、そもそもどの部屋に案内すれば良いのかわからない。



「適当で良いよ!あたしどこでも寝られるし」



とりあえず囲炉裏部屋に案内すると、椎名さんは遠慮のかけらもなく部屋の中を物珍しそうに見回している。



「へえー。意外と綺麗にしてるじゃん」

「椎名さん。お茶で良いですか?」

「アイルーで良いよ!」

「あいるー、ですか?」

「可愛いっしょ!ゲームのキャラクターと一緒なんだよ!それに海外の人からもわりとウケが良いんだ!」



曖瑠さんは笑いながら「漢字で書くとすっごいめんどくさいんだけどね!」と言って、昨日私が片付け忘れたノートの隅っこに『曖瑠』と書いてくれた。たしかに少し面倒くさそう。



「沙希ちゃんはどんな字なの?」

「えっと、特に特徴があるわけではないんですけど……」



私は『曖瑠』と書かれた隣に『沙希』と書いた。



「やっぱ沙希ちゃん漢字も可愛いわ!」



漢字も可愛い、とは。



「どうして沙希っていう名前にしたんだろうね」

「あ、それはーー」



小学校の頃、名前の由来を聞く授業があったから、自分の名前の由来は知っていた。

『沙希』は、砂浜や水際、水で洗って良いものを選り分けるという意味がある。お父さんとお母さんは海が好きだったから『沙』という漢字を使いたかったらしい。あとは、言いやすくしたかったから、後ろに『希』を付けたんだとか。



「ちゃんと自分の名前の由来言えるなんて偉いじゃん!」

「曖瑠さんは、どんな由来があるんですか?」

「わっかんねっ!」



やっぱり曖瑠さんは適当な人なのだろうか。

けれど、その次に出てきた一言は、私に突然リアルな現実を突き付けた。



「あたしの両親は小さい頃に死んじゃってるからね」

「え……」



みんながみんなお父さんとお母さんがいると思ったら、それは大きな間違いだ。そんな当たり前のことを、ようやく頭ではなく、身体で理解したような気がした。



「そんな顔するなって!そういう人も世の中には一杯いるからさ!」



罪悪感を消そうとしてくれているのか、曖瑠さんは八重歯を見せながら笑って、私の髪をくしゃくしゃに撫で回した。



「名前ってさ、お父さんとお母さんが一番初めにプレゼントしてくれるものなんだよ。しかも、願いが込められている大切なもの」

「大切な……もの」

「そう。あたしみたいに知ることができないのはしょうがないけど、名前の由来をきちんと言える人は、やっぱり素敵だと思うなあ」

曖瑠さんは少し遠い目をしてから、私の方を向いた。包み込まれそうな優しい笑みは、私の脳裏に焼きついた。