嫌な夢を見てしまった。いや、思い出してしまった。あれはたしか、小学校に入学したばかりの頃だ。
夢だったらもっと非現実的なものだったらよかったのに、よりによって思い出したくもない過去の記憶を鮮明に再現するなんて。
カーテンの無い窓から差し込んでくる光は、もうすっかり黄昏時の色をしている。
気分は最悪だったけれど、意外と長い間寝られたようで、頭はすっきりしていた。目元を擦すると少し濡れていた。
「何時だろう」
スマホをどこかに置いた記憶なはいけれど、きっとあのちゃぶ台テーブルの上に置いているだろう。
あれ?
起きあがろうとしたら、ダウンケットが掛けられていることに気が付いた。
敷布団を取り出したらすぐに寝落ちしてしまったはずだけど……寝ている時、無意識に押し入れから引っ張り出してきたのだろうか。
ちゃぶ台の方に視線を向けると、やっぱりスマホはそこに置いてあったのだけれど、それと一緒に麦茶が入ったコップも置いてあった。
ちゃぶ台の隣には、脱ぎ捨てたはずのパーカーが綺麗に畳んで置かれている。これは一体どういうことだろう?
できればエアコンの効いたこの部屋にこもっていたかったけれど、さすがにここに来てまだ寝ることしかしていないのも悪い。
畳まれたパーカーに袖を通してから、スマホをポケットに入れる。扉を開けると、むわっとした空気が部屋に押し寄せてきた。
急な階段を転げ落ちないように手すりに捕まりながら一歩一歩降りていく。
キッチンの方に向かうと、トントンと包丁で何かを刻むような音が聞こえてきた。キッチンを覗いてみると、まやさんがキャベツを切っていた。
「あの……」
「目が覚めたんですね」
まやさんは少しだけ私の方を向いてから小さく微笑むと、再び視線をキャベツの方に向ける。
どうやら私が寝ていたことを知っているようだ。あのダウンケットと麦茶は、まやさんが用意してくれたのだろうか。
「頭とか痛くない?」
「あ、はい大丈夫です」
「良かった。いくら暑いからって、エアコンの設定温度は下げすぎない方が良いですよ」
そういえば、冷房のスイッチを押したまま寝落ちしてしまったんだっけ。
「あの、まやさんがダウンケットをかけてくださったのですか」
「すみません。お茶を持って行ったのですが返事がなかったので、勝手に開けてしまいました。そしたら冷房がかなり効いていて、このままだと身体を冷やすと思ったから、つい」
「や、いえ、ありがとうございます」
やっぱりそうだった。余計な気を遣わせてしまって本当にすみません。
きっと今は身体を冷やしてしまったからパーカーを着ていると思われているのだろう。
ダウンケットをかけてくれたということは、右腕を見られてしまったのではないだろうか。しかも寝ながら泣いていたという醜態も見られていたのでは。
「あの……」
「どうしました?」
まやさんは手を止めると、不思議そうにじーっと私の顔を見つめる。ひょっとして右腕には気付いていなかった?そ、それなら良いんですけど。
「い、いえ、別に。せっかくなので何かお手伝いさせてください」
「そうですか。じゃあ、このキャベツを洗って一口サイズに切ってもらえますか」
「わかりました」
料理は決して得意とは言えないけれど、家ではしょっちゅうしているから私でも十分役に立てる。
キャベツ切り係を譲ってくれたまやさんは、戸棚の下に置いてある段ボールから黒い塊を取り出し、底が網状になった鍋に入れる。
それをコンロの上に置いて火を付けると、火に炙られた黒い塊が徐々に赤みを帯びてきた。
「炭に火を付けているんです」
「何に使うんですか」
「一ノ瀬さんが言っていたバーベキューです」
「バーベキュー?」
てっきり家の庭や河原でやるものだと思っていたけれど、どうやら囲炉裏部屋の中でやるみたいだ。
「こうやって炭に火を付けてから囲炉裏に移すんです」
「へえ……薪を燃やすんだと思っていました」
「それでも良いんですけど、薪を使うと部屋が煙たくなってバーベキューどころじゃなくなるんですよね」
「私、間近でそんな大きな火を見たことないかもしれません」
「本当ですか」
「はい、コンロの火くらいしか」
「それじゃあ、今度焚き火をしましょう」
「危なくないですか?家燃えたりとか」
「キャンプファイヤーみたいに火柱が上がるほど燃やさないので大丈夫ですよ」
焚き火なんてテレビでしか見たことがないから、ちょっとやってみたかもしれない。
鍋の中で炙られている炭たちは、徐々に赤みがかってきた。
キャベツを切り終えると、今度は茄子とピーマン、とうもろこしを切っていく。
決して広くはないキッチンには炙られた炭の熱気が篭り、みるみる温度が上昇してくる。
自分が発した熱気はパーカーの中にどんどん溜まってきて、私はふうっと大きく息を吐く。
「ちょっと持ってて」
「え?」
まやさんは炭が入ったお鍋を私に預けると、キッチンを飛び出し、すぐに扇風機を抱えて戻ってきた。
冷蔵庫の前にあるコンセントにコードを差し込んで、すぐに電源ボタンを押す。扇風機の首をゴキゴキと動かして私の方に向けると「これでよし」と言って私からお鍋を受け取った。
「ごめんなさい。私が厚着をしているせいで」
こういう時こそにこっと笑ってありがとうって言えば良いのに、なぜかごめんなさいになってしまう。
「いえいえ、ちょうど僕も暑くなってきたと思っていましたので」
気を遣ってもらうと、余計に惨めな気持ちになってしまう。
「こんなに暑いのにパーカーを着ているのって、変ですよね」
自分でも何を言っているんだろうこいつはと思った。
下手に気を遣われるのは嫌だから、正直に変だって言って欲しかったのかもしれない。ああもう、これじゃただのメンヘラじゃん。
「いえ、別に。一ノ瀬さんのスタイルがあると思いますので、特に変だとは思いません」
「い、良いんですか?」
「良いんです」
興味がないというより、許容してくれているような気がした。
まやさんだったら、私の右腕のことを何と思うだろうか。もやもやしたままになるのは何か嫌だったから、恐る恐る聞いてみた。
「わ、私が寝ていた時、右腕を見たりしました?」
「右腕?ああ、火傷の跡らしいものがあったということですか」
即答だった。やっぱ気付いていたんだ。
「気持ち、悪いですよね……」
「いえ、全然」
あまりにもあっけらかんと言われてしまった。
「え……」
「一ノ瀬さんは、自分の腕が気持ち悪いと思っているのですか?」
「気持ち悪いというか、何というか。人と違うし、原因がわからないし……」
質問を返された私は苦し紛れに答えてしまう。
初めは思ってはいなかったけれど、小学生の時のあの一件以来、自分の腕は気持ち悪いものなんだと決めつけるようになっていた。
「その腕は、生まれつきじゃないんですか」
「小さい頃にできたものだと思うんですけど、記憶が無いのでわからないんです」
「事情を知っている人はいないんですか」
「お父さんとお母さんは何も教えてくれないんです」
「そうですか……」
夢だったらもっと非現実的なものだったらよかったのに、よりによって思い出したくもない過去の記憶を鮮明に再現するなんて。
カーテンの無い窓から差し込んでくる光は、もうすっかり黄昏時の色をしている。
気分は最悪だったけれど、意外と長い間寝られたようで、頭はすっきりしていた。目元を擦すると少し濡れていた。
「何時だろう」
スマホをどこかに置いた記憶なはいけれど、きっとあのちゃぶ台テーブルの上に置いているだろう。
あれ?
起きあがろうとしたら、ダウンケットが掛けられていることに気が付いた。
敷布団を取り出したらすぐに寝落ちしてしまったはずだけど……寝ている時、無意識に押し入れから引っ張り出してきたのだろうか。
ちゃぶ台の方に視線を向けると、やっぱりスマホはそこに置いてあったのだけれど、それと一緒に麦茶が入ったコップも置いてあった。
ちゃぶ台の隣には、脱ぎ捨てたはずのパーカーが綺麗に畳んで置かれている。これは一体どういうことだろう?
できればエアコンの効いたこの部屋にこもっていたかったけれど、さすがにここに来てまだ寝ることしかしていないのも悪い。
畳まれたパーカーに袖を通してから、スマホをポケットに入れる。扉を開けると、むわっとした空気が部屋に押し寄せてきた。
急な階段を転げ落ちないように手すりに捕まりながら一歩一歩降りていく。
キッチンの方に向かうと、トントンと包丁で何かを刻むような音が聞こえてきた。キッチンを覗いてみると、まやさんがキャベツを切っていた。
「あの……」
「目が覚めたんですね」
まやさんは少しだけ私の方を向いてから小さく微笑むと、再び視線をキャベツの方に向ける。
どうやら私が寝ていたことを知っているようだ。あのダウンケットと麦茶は、まやさんが用意してくれたのだろうか。
「頭とか痛くない?」
「あ、はい大丈夫です」
「良かった。いくら暑いからって、エアコンの設定温度は下げすぎない方が良いですよ」
そういえば、冷房のスイッチを押したまま寝落ちしてしまったんだっけ。
「あの、まやさんがダウンケットをかけてくださったのですか」
「すみません。お茶を持って行ったのですが返事がなかったので、勝手に開けてしまいました。そしたら冷房がかなり効いていて、このままだと身体を冷やすと思ったから、つい」
「や、いえ、ありがとうございます」
やっぱりそうだった。余計な気を遣わせてしまって本当にすみません。
きっと今は身体を冷やしてしまったからパーカーを着ていると思われているのだろう。
ダウンケットをかけてくれたということは、右腕を見られてしまったのではないだろうか。しかも寝ながら泣いていたという醜態も見られていたのでは。
「あの……」
「どうしました?」
まやさんは手を止めると、不思議そうにじーっと私の顔を見つめる。ひょっとして右腕には気付いていなかった?そ、それなら良いんですけど。
「い、いえ、別に。せっかくなので何かお手伝いさせてください」
「そうですか。じゃあ、このキャベツを洗って一口サイズに切ってもらえますか」
「わかりました」
料理は決して得意とは言えないけれど、家ではしょっちゅうしているから私でも十分役に立てる。
キャベツ切り係を譲ってくれたまやさんは、戸棚の下に置いてある段ボールから黒い塊を取り出し、底が網状になった鍋に入れる。
それをコンロの上に置いて火を付けると、火に炙られた黒い塊が徐々に赤みを帯びてきた。
「炭に火を付けているんです」
「何に使うんですか」
「一ノ瀬さんが言っていたバーベキューです」
「バーベキュー?」
てっきり家の庭や河原でやるものだと思っていたけれど、どうやら囲炉裏部屋の中でやるみたいだ。
「こうやって炭に火を付けてから囲炉裏に移すんです」
「へえ……薪を燃やすんだと思っていました」
「それでも良いんですけど、薪を使うと部屋が煙たくなってバーベキューどころじゃなくなるんですよね」
「私、間近でそんな大きな火を見たことないかもしれません」
「本当ですか」
「はい、コンロの火くらいしか」
「それじゃあ、今度焚き火をしましょう」
「危なくないですか?家燃えたりとか」
「キャンプファイヤーみたいに火柱が上がるほど燃やさないので大丈夫ですよ」
焚き火なんてテレビでしか見たことがないから、ちょっとやってみたかもしれない。
鍋の中で炙られている炭たちは、徐々に赤みがかってきた。
キャベツを切り終えると、今度は茄子とピーマン、とうもろこしを切っていく。
決して広くはないキッチンには炙られた炭の熱気が篭り、みるみる温度が上昇してくる。
自分が発した熱気はパーカーの中にどんどん溜まってきて、私はふうっと大きく息を吐く。
「ちょっと持ってて」
「え?」
まやさんは炭が入ったお鍋を私に預けると、キッチンを飛び出し、すぐに扇風機を抱えて戻ってきた。
冷蔵庫の前にあるコンセントにコードを差し込んで、すぐに電源ボタンを押す。扇風機の首をゴキゴキと動かして私の方に向けると「これでよし」と言って私からお鍋を受け取った。
「ごめんなさい。私が厚着をしているせいで」
こういう時こそにこっと笑ってありがとうって言えば良いのに、なぜかごめんなさいになってしまう。
「いえいえ、ちょうど僕も暑くなってきたと思っていましたので」
気を遣ってもらうと、余計に惨めな気持ちになってしまう。
「こんなに暑いのにパーカーを着ているのって、変ですよね」
自分でも何を言っているんだろうこいつはと思った。
下手に気を遣われるのは嫌だから、正直に変だって言って欲しかったのかもしれない。ああもう、これじゃただのメンヘラじゃん。
「いえ、別に。一ノ瀬さんのスタイルがあると思いますので、特に変だとは思いません」
「い、良いんですか?」
「良いんです」
興味がないというより、許容してくれているような気がした。
まやさんだったら、私の右腕のことを何と思うだろうか。もやもやしたままになるのは何か嫌だったから、恐る恐る聞いてみた。
「わ、私が寝ていた時、右腕を見たりしました?」
「右腕?ああ、火傷の跡らしいものがあったということですか」
即答だった。やっぱ気付いていたんだ。
「気持ち、悪いですよね……」
「いえ、全然」
あまりにもあっけらかんと言われてしまった。
「え……」
「一ノ瀬さんは、自分の腕が気持ち悪いと思っているのですか?」
「気持ち悪いというか、何というか。人と違うし、原因がわからないし……」
質問を返された私は苦し紛れに答えてしまう。
初めは思ってはいなかったけれど、小学生の時のあの一件以来、自分の腕は気持ち悪いものなんだと決めつけるようになっていた。
「その腕は、生まれつきじゃないんですか」
「小さい頃にできたものだと思うんですけど、記憶が無いのでわからないんです」
「事情を知っている人はいないんですか」
「お父さんとお母さんは何も教えてくれないんです」
「そうですか……」