家に帰ると、既にお母さんが仕事から帰って来ていた。



「ただいま」

「おかえり。茂おじさん連れてきてくれた?」

「一緒にいるよ」

「やあ、姉貴。久しぶり」

「久しぶり。元気してた?」

「おかげさまで、姉貴は相変わらず忙しそうだね」

会社の制服を着たままエプロンを着て台所に立っているのは私には見慣れた光景だけれど、初めて見る茂さんは少し驚いたような顔をしていた。



「忙しいのは良いことよ。さ、上がって上がって。沙希と一緒にさっさと手を洗って来なさい。沙希、洗面所案内してあげて」

「はーい」

「悪いね。じゃ、お邪魔します」



お母さん、やっぱり弟だからと言って、茂さんの扱いはちょっと雑すぎる気がする。

でも、お母さんは久しぶりに茂さんに会えたからか、いつもより少しだけ嬉しそうだった。

お母さんは仕事が定時に終わった時は、七時くらいに帰って来て、すぐに夕飯を作ってくれる。それ以外の日は、九時とか十時くらいに帰ってくるから、私が夕食当番になっている。

今までは水曜日と金曜日は必ず定時に帰れたらしいのだけれど、最近は金曜日も帰ってくるのが遅くなった。そのせいか、前よりも帰って来た時のやつれ具合がひどくなったような気がする。

だから金曜日も夕飯を作ろうかと言ったら「心配しなくて大丈夫。それに、お母さんの作ったものを沙希に食べて欲しいし」なんて言って、この決まり事は変えてくれなかった。

お母さんの作ったご飯が食べられるのは嬉しいけれど、無理してまで作って欲しくはない。



「取材の帰りに寄ったカフェで、まさか沙希ちゃんに会うとは思っていなかったよ」

「本当、沙希と一緒で良かったわ。あんた子供の頃から一人で出かけると、いつもどこかに寄り道して、なかなか帰ってこなかったじゃない」

「あはは!さすがに今はちゃんと帰ってくるから、ご心配なく」

「泊まっていくのは今日だけ?」

「そうだよ。明日帰りの方向で、もう一件取材があるから、そのまま家に帰ろうと思ってる」

「別にもう一泊して行っても良いのよ」

「いや、流石に何日もあの家を空けておく訳にはいかないよ。古くてまだまだ直さなきゃいけないところが多いし、家を頑張って守ってくれている人もいるし」

「例の男の子のことね。本当に大丈夫なの?」

「大丈夫って?すごく良い子だよ」

「そうじゃなくて。その子、学校にも行っていないし、親のこともわからないんでしょ?」



やっぱり学校行ってないんだ。というか、お母さんは男の子のことを知っていたんだ。

一体どんな子なんだろう。



「あー、大丈夫だよ。心配ない。それに、どんな人もいろんな事情を持ってるからね」

「ほんと、あんたって呆れるくらいお人好しなんだから」



そう言って、お母さんは大きな溜息を吐いた。



「あ、それと、沙希ちゃんうちに遊びにくることになったから」

「ええ⁉︎沙希、茂のところに行くの?」

「えっと……うん。行ってみようかな、と」



普段大きな声を出さないお母さんがこんなに驚いているのは久しぶりに見たかもしれない。

その大声に、私も驚いてビクッとしてしまったから、それを見た茂さんは「そんなに驚かなくても」って言って笑った。



「大丈夫。宿題や勉強はちゃんとするよ。それにほら、お母さんが昔住んでいたところ行ってみたいし」



お父さんのことを思い出して嫌な気持ちにさせたくないから、むやみに写真やカメラというワードを使わないようにしている。とにかくお母さんを心配させてはいけない。

お母さんは何か言いたそうな顔をしていたけれど、喉元まできた言葉を飲み込んでしまった。でもその表情は、明らかに沈んでいた。



「姉貴、大丈夫だよ。俺もいるし」

「でも、この子は……」



何?私がどうしたの?



「沙希、お風呂沸いているから先に入って来なさい」

「あ、はい」



ああ、また始まった。お母さんが私にお風呂に入っていなさいと言うのは、遠回しにこの場から席を外しなさいという意味がある。きっと茂さんと二人きりで話をしたいのだろう。

と言っても、脱衣所は扉一枚で仕切られただけの部屋だから、お母さんと茂さんの話し声は自然と聞こえてくる。



「やっぱり、やめておいた方が良いんじゃない?」

「沙希ちゃんも今年から高校生だし、もうそろそろ大丈夫じゃないかな」

「そうかもしれないけど……」

お母さんは不安そうだった。茂さんは真剣に、でも柔らかさは残した声で、お母さんに言った。

「沙希ちゃんのためにも、いつかは知っておいた方が良いと思うんだ。それに今日、沙希ちゃんと会ったら、そのいつかは今だと思ったんだ」

「あの子、中学の時、学校でいじめられていたみたいなの。原因は、私の離婚のことと、腕のことらしいの。沙希がいじめられていたのは何となく勘づいていたけれど、私、自分のことで精一杯で、何もしてあげられなかった……私は、これ以上沙希に悲しい思い出を増やしたくないの」

「でも、そのまま知らずに大人になるのはどうかと思う。過去は捉え方によって変えられるけど、まずは知らないと向き合うこそすらできない」

「沙希は人一倍神経質なの。だから私は……あのことを忘れていた方が良いと思う」

「もちろん姉貴が一番沙希ちゃんのことを知っていると思う。だけど、あの子はそこまでヤワでもないと思う」



何を言ってるのかわからなかった。

けれど、お母さんが私に何かを隠しているのはわかった。大人だけの話の中に私がむやみに首を突っ込んでも、ろくなことが起こらない。

大人は大人同士でしかできない会話がある。

私だけ取り残されたような気持ち悪さを感じるけれど、お母さんが私のことを思ってくれているのも確かだから、これ以上余計な詮索はしないでいようーーなんて言い聞かせながら、浴室に向かった。

湯船に浸かってぼーっと考え事をしていたら、危うく溺れそうになった。

お風呂から上がって髪を乾かしたら、リビングには行かず、そのまま自分の部屋に行った。

宿題の続きをしようとしたけれど、やる気がしなかったから一ページも進めずにやめた。

代わりにパソコンで今日撮った写真をいくつかいじっていたところで、記憶がなくなった。