「最近、昔のことばかりよく思い出すんだ」
厳密に言うと、最近ではない。定年退職するまで40余年、市役所の財務課に勤務していた自分の頭の中は数字で埋め尽くされる日々だったが、記憶や日常もその例外ではなかった。
俗に言う痴呆でも老衰でもない。余命三ヶ月。心臓の痛みに気づかないふりをしてはぐらかし、心配する女房の言葉を煙たがったが故の末路だった。家内は、いつも心配をしていた。結婚して、今年で40年になる。その節目に、仕事を理由に家庭を蔑ろにした皺寄せは、机上に置かれて旅立っていった。
実家に帰る、そうメモを残した家内の実家は鹿児島で、もうこの歳にもなると親がいる訳でもない。子宝に恵まれず、それでもふたりでいた。ただ、ふたりでいた。自分で言うのもなんだが、亭主関白な亭主を持った家内が今では不憫に思う。背中を丸めて、少し小さくなりながら、私が最後に手を振り払った時、それでも彼女は眉を下げて笑っていた。
「や、そんで逃げた女房のこと反芻してるとかクソうぜーっすよ」
「く、くそうぜ、」
「今で言うモラハラ。つかパワハラ? 亭主関白くそうっっっざ。うちなんかアレすよこないだマックのポテト買う派、それとも家で揚げる派っつー話になってどーせ相方潔癖でイートイン無理なんでテイクアウトすんだから安値だし業務スーパーで油とフライドポテトの冷凍買ったらこれはフライドポテトじゃないとか抜かしやがってクソ野郎が、ムカついたんで寝てる間に便器掃除した歯ブラシ口に突っ込んどいてやりましたよ」
「蓮実くん、それは」
「まーそっから好き勝手させてますけどね、知らねーしクソウザーじゃんすかポテト論争。時間の無駄だし夜勤前の体力削がれるのうんこなんでとっとと油過剰摂取してくたばれメタボリックシンドロームってな点滴入りまァす」
彼女は、303号室、私、板持晴雄の担当看護師だ。24歳、蓮実れんと言った。
可愛らしい顔に反して、息を吸うように毒を吐き、そしてこの口調に反して、看護のスキルが非常に高い。
303号室の天使
翌日、突然ベッドテーブルにありったけのフライドポテトを置かれた。
「いや蓮実くん、点滴してる人間にポテトフライ出すかな、普通」
「いや、うまいんで。一回食べてみてくださいって。クソうまいんで」
「私は脂っこいものを食べてもいいのだろうか」
「まずいっすね」
「じゃあ勧めちゃだめだよね、私余命間もないんだよ蓮実くん」
「さぁさ、グイッと」
「蓮実くん」
うい、と可愛らしい籠にわんさか入れられたものは、愛妻クッキーでも、愛妻サンドイッチでも、ましてやフルーツバスケットでもない。仕事でも殺伐とした交友関係を築いていたせいで自分が入院なってから、見舞いにきた人間の一人もいない。そんな自分に初めてあてがわれたのは、ほくほくの焼き立てポテトフライだった。
ひとつ指にとり、つまんでみる。若い頃、それは何度と口にした味だ。とは言っても、私の年代の頃そうまだ日本にファーストフード店のチェーンはメジャーではなく、寄るのはシャッター街にある30円のコロッケ屋だった。昔、恋慕ったマドンナを、親友の作郎とどっちが落とせるか、そんな話で競っていた。高嶺の花で、名門の女子高校に通う彼女の姿を街中で見ることができるのは火曜日の16時、彼女が花の稽古に出るために学校に迎えに来た車に乗り込む瞬間だ。それを、作郎と二人で遠くから眺めて、やれ今日は自分を見ただとか、やれ自分に惚れているだとか、そんな話をするのが乙だった。
彼女が結核で亡くなったと聞いた年、親友の作郎もまた、工場の製鉄所の炉に落ちて跡形もなくこの世から去ってしまった後だった。
「私は、いつも気付くのが遅いんだ」
「ほう、何に」
「何もかもさ。取り返せないまま、すべて取りこぼしている」
「は、出たよ年の功。つかいーからポテト食ってくださいよ。冷めるんで」
ポテトを一口齧る。油っぽく、塩気が強い。まるで今に打ち勝とうとする若者が求める味そのもののように思えて、その生命力に一瞬、頬を打たれた。
ひとつ、手を伸ばす。塩っけが強い。それでもまた手を伸ばした。口に運んでいく。
「ケチャップいるすか?」
「いいよ、いらない」
「ばちくそ食うじゃん、なら病院食食えって師長に自分がドヤされるんすが」
「ポテトフライ持ち込んだこと、言うの?」
「言わなきゃ半分自分が板持さんの寿命削ってるんでね」
「意外と真面目だ」
「後の人間は知らんけど」
はあだっりいな、そんなことをぼやいて小指で耳をほじる彼女は、白衣の天使とは名ばかりの、そうだ、なんというか、「やんきい」というやつだった。以前に聞いたことがある。あまりに口が悪く、態度もがさつで、私の部屋の担当になったと聞いた時も挨拶に定時で来たものの、その態度は到底誉められたものではなかった。
それでも、師長が一目置いているらしい。この態度で、手技が出来る。彼女に何度か点滴や注射、入浴介助をしてもらったことがあるがそれは手早く、以前担当していたベテラン看護師の倍にも及ぶ素早さだった。体力があるのかもしれない。センスがある。手技や技能たるものは経験とともに培われるもので、全てが持って生まれたその者のセンスや向き不向きだと述べると、この社会の多くは罷り通らなくなるだろう。自分は、不器用な方だ。社会に出てから、五年もしてようやっと上司に何も言われなくなった。それでも未だにミスをする。そんな時、意外と周りも特別出来ているわけではないことに気がつく。
社会の多くは、誤魔化しや、様子を窺ったり、鑑みたりしながら、絶妙なバランスを常に保とうとしている。
「まーたトリップしてるよ板持晴雄」
「さんはせめてつけようか、蓮実くん」
「で、実際のところどうっす?」
「はい?」
「ポテトフライ。ワンチャンあるっす?」
「わんちゃん…?」
「マックよりうまいすかね」
「え、あぁ、私はそうだね、塩気があって、こう、刺激的でいいと思うよ」
「ッスよねぇ。324円で1キロだったらこっちのがいーだろテイクアウトでシナポテになんのによあのクソ男ケツぶん殴ってやろうか」
彼女が時としてこの先無事に生きていけるかどうかを心配に思う。
前世で、彼女はひょっとすると、親を「やんきい」に殺されたのかもしれない。私は、そういう二次創作的な思想が、割と嫌いではなかった。
「ま、でも晴雄さんがうまいっつーんなら、自分の手作り確定で」
彼女が振り向いて笑うので、それもそれでありなのではと思う。
◇
最近、昔のことばかりよく思い浮かべている。
旅をすればよかった。恋をすればよかった。もっとたくさんの目に見えたものを、大切に顧みればよかった。振り払った手であったり、間違いや、後悔ばかりが先立って、自分を雁字搦めにしていく。死ぬ間際、人は多くそう思考するらしい。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。それでも、人間は後悔する。間違える。こうすればよかったと、過ぎてから自分の過去を振り返る。
何もない人間など、いない。そこに浮かぶのはいつも、もう消えてしまったお嬢さんと、作郎、或いは手から取りこぼした女房の皺くちゃの手だ。
銀婚式の時、家内にどこで食事をするかと問われ、その日に大切な仕事の案件が立て込んでいたこともあり、彼女が何を言っているのか、よくわからないまま、取ってつけたような真珠のネックレスをプレゼントした。
食事には行けず、家内は自宅で私に食事を振る舞うと丹精込めて支度をし、私が帰宅し、21時を回った頃、それでもダイニングテーブルでワイングラスを前に背筋をただして微笑んでいた。
慌ただしく、そして煩わしかった。優しい家内の態度がときに、私にとっては気に障った。内心憤りながら、こんなゆきずりで辿り着いた今日に、価値や意味を見出して人並みに嬉々としている。これからも宜しく、そんな月並みな御託も所詮、やがて意味を成さないであろうに、真珠のネックレスを見て家内は酷く喜んでいた。
十周年の時、同じネックレスを渡していたと気がついたのは、私が病気で倒れる十日前の話だ。
「晴雄さん。晴雄さーん」
「やっぱり少し血圧が高いわね」
「昨日ポテトフライ爆食いしてたからすかね」
「病室に誰がポテトフライを持ち込んだのよ」
「自分す」
「あなたねえ!!」
殺す気なの! と同僚か、先輩か、ナース服の看護師に胸ぐらを掴まれて気怠そうに目を逸らしている。その視線とかち合った時、悪戯に笑われた。
たしかに私は彼女に殺されかけた気がする。だが、自分でその死を手繰り寄せた。死に急ぎ、死を乞うた。それでも、それでも。
酸素マスクを付けたまま、彼女に心から笑っていたのは、昔を思い出したからだろうか。
◇
「大概、死ぬんすよ」
「なにが?」
「自分がね、担当につくと。大概死にます。患者」
「どこで看護師交代の手続きが出来るのかな」
「けど、晴雄さん正味死にたがってんしょ?」
65になる。世間一般的には、まだまだ若いのかもしれない。月並みで、苦しむには取るに足らない。過去はありふれていて、特記事項も何もない。最愛の女房を傷つけ、逃げられた。それを、自分が逃した気でいる。追いかける度胸がなく、自分の手から逃れさせることで、彼女に自由を、あてがったつもりでいる。
その末の絶命は、やがて聞こえとしては美談だ。
「本当は奥さんに逃げられて心底傷ついてるくせに、追う度胸なくてかっこよく死ねる俺可哀想っては、笑わせんな気色悪い。そーゆーの、なんつーか知ってます?」
彼女が短い横髪を耳にかけ、ベッドに片手をついて私の耳に口を寄せる。
「自己満足っつーんすよ」
「…」
「根性なしが。美談で終わらせてーだけだろ」
「君にはわかるまい」
「まだ若く可能性に満ち溢れ最近婚約し同棲してる男と順風満帆で口喧嘩のネタといえばファーストフード店のポテトフライ、看護師の資格があり仕事は出来て優遇され給与はありやがて面倒ごとも寿命と同時にひとりでに過ぎ去ってくれるだろうさっさと死ね終われ仕事ならするからなんてそんな惰性で患者と向き合う君に私の何がわかるんだ」
「わかんないっす」
「…」
「つか、わかりたくねっす」
「そんな卑屈になって人生楽しいんか」
丸椅子から立ち上がり、チューブを通した私のベッドにのしかかる。胸ぐらを掴み、抗おうとすると笑顔のまま狂気に溢れた瞳が怒気を孕んで、泣いていた。
「こっちから願い下げだこんな余命宣告者、って簡単に匙はいくらだって投げられる。ほっときゃ死ぬし白衣の天使だはぁふざけんなこちとら生活のためにやってんだ誰が好きでジジイの排泄手伝うんだよ噛みつかれても真顔でやってんだよ耐えてんだよ泣くの堪えてんだよここまで来たんだよってそれでも向かい合ってりゃその人が笑ってくれるからってやりがい見つけてそれでもこちとら真面目にやってんだ」
「…」
「生きたいなんて無理に思わなくてもいい」
「蓮実くん」
「なんとかなるっす。命さえあれば」
死ぬこと以外はかすり傷、でしょ。
そう、どこかで聞き飽きたフレーズを、彼女は口遊んでいた。そのあと、数日過ごした。蓮実れんと過ごした時間は将棋や、麻雀や、そんな素行の知れたものばかりで、育ちの悪さを彼女に指摘するとそれでも並びのいい歯を見せて笑っていた。明日もある。明日もよろしく。喧嘩をして、ぶつかり合い、そして馴れ合うように和解して、明日を待った。
その明日は、来なかった。
翌日も、明後日も、その次の日になっても、彼女は病室に来なかった。
私が入院してから三ヶ月。余命三ヶ月の時期がとうに過ぎてしまい、季節が移り変わる中、大部屋の角で過ごす1人の時間は、酷く長く感じた。
彼女との日々は、ちぎれたように終わったのだ。
程なくして、私が望んだ自宅療養の許諾が降り、世界は雪化粧になった。窓の中からしんしんと降り注ぐ空を眺めるには冷たく、寒く、凍えていた。行かなければならない、そう、自分を叱咤していた。
「…蓮実さん?」
「いたでしょ、数週間前まで私の担当をしてくれていた看護師の」
「あぁ、えっと、彼女は…」
「?」