彼の入院が始まって一ヶ月。
 結局毎日通ってしまっている。せめてもの謝礼にお土産を持って行ってはいるけど、気持ち悪がられてるかも。でもそんな素振りは見せず、いつも笑って迎えてくれる。優しいなぁもう。
 彼は色々取り調べを受けて大丈夫と判断されたらしく、大きな窓のある部屋に移動した。彼は嬉しそう。空見るの好きだもんね。
 でも私と居る時は私を見てくれる。それがどうしようもなく嬉しくて、つい甘えてしまう。
 家の前のコンビニで花火パックをいくつか買う。彼には内緒にしているけど、今日は病院の屋上で小さな夏祭りがある。サプライズで一緒に行くんだけど、驚いてくれるかな。ちょっと楽しみ。
 肩から提げた大きな鞄を持ち直す。これも彼には秘密にしているけど、今日から病院に泊まり込むことにした。勿論お父さんに許可は貰ったよ? 本音は彼の部屋に泊まってみたかったけど、流石に憚られて空き部屋を貸してもらった。
 お父さんは私が夏休みに入った途端に怠け者になることを知ってる。宿題なんて最後の一週間になるまでした事ない。でも彼の前では怠けられない。そう考えたからお父さんは承諾してくれたのだろう。その通りでちょっと悔しい。それに負けないくらい嬉しいけど。
 彼は私とは違って賢いみたい。入院している所為で習ってない筈の問題も、分かりやすく教えてくれる。隠れて勉強してるのかな。だとしたら凄い努力家さん。私も負けないようにしなきゃ。
 そうこう考えているうちに病院に着いた。何となく視線を感じたような気がして、見上げてみると彼と目が合った。大きく手を振ってみる。彼も小さく振り返してくれた。嬉しかったからピースサインを作る勢いで笑えた。彼も微笑んでくれていた。擽ったいような気持ちになったから、踊る様な足取りで病院に入っていく。
 まだ3時だというのに、待合室には沢山の人がいた。みんな夏祭りに来たのかな。確かにこの街じゃ夏祭りなんてしないから、こんな珍しい行事に集まって来るのも頷ける。
 待合室を素通りし、二階の一番端の彼の部屋に行く。
 扉の前で深呼吸をする。学校が無い分長く彼と居られると思うと、なんだか緊張してきた。心拍数が上がり、顔が熱くなる。鏡を見なくてもわかる。顔紅いよね。このままじゃ会えないよ。
 焦りに焦ってトイレに駆け込んだ。蛇口から出る冷水で顔を冷やす。

「何やってんだろ私……」

 鏡に写った顔を眺める。なんて情けない顔。これから彼と会うのに。溜息を一つして、彼の笑顔を思い浮かべる。それだけで笑えるのだから彼は本当に凄い。
 ペシペシと頬を叩いて自分を鼓舞する。これから彼と居られるんだ。この上ない幸せの筈。なのに何だろう。
 この不安な感覚は。
 掴みどころのない、まるで雲を掴んでいるような。いつ落ちてもおかしくない様な。そんな不安感。
 ブンブンと頭を横に振り、嫌な思考を吹き飛ばす。心配なんていらない。だって彼が居てくれるもん。

(そろそろ行こう)

 熱は引き、少し重くなってしまった心を抱えながら再び扉の前に立つ。大丈夫。また微笑みかけてくれる。
 ノックはせず、扉を開ける。

「おっはよー」

 自然と言葉が出ていたし、上手く笑えた。
 彼はなんだか安心したように笑ってくれた。

「おはよ。今日は何持ってきたの?」

 鋭いところを聞いてくれたね。と得意げに笑ってみせる。彼の前だと自然に素を出せるのが不思議だ。魔法かな? なんてね。
 彼は察したようで、それ以上は何も言ってこなかった。最近口数が減ってきている。意思疎通っていうのかな。何となく彼の思考が分かるようになってきた。
 そろそろ勉強始めようと、鞄から数学の参考書を取り出す。初めて夏休みの前半に宿題に手を付けてみる。

 カリカリ……ピッピッ……スースー

 色んな音が聞こえてくる。でも不思議と集中出来ている。習って間もないからスラスラと解けていく。なるほど。宿題は早めにやるのが良いのか。
 分からないところは彼に教えてもらう。教え方が上手いから、授業よりも分かりやすい。流石だ。
 なんだか楽しくなってきて、鼻唄が出ていた。彼は苦笑していたけど嫌ではないらしい。
 彼は眠たくなってきたようで、「ちょっと寝ていい?」と聞いてきた。許可なんてとる必要ないのに。優しいなぁ。
 暫くすると彼の寝息が聞こえ始めた。

(可愛い寝顔ねぇ。写真撮りたい)

 そんな邪な考えは捨てて、鼻唄のボリュームも下げて勉強を続ける。
 1時間程経って、数学で分からないところに入った。彼を起こすのも気が引ける。次は国語にしようかな。
 休憩がてらに彼の寝顔を眺める。少し魘されているようだったけど、今は大丈夫そう。どんな夢を見てるのかなぁ。ちょっと気になる。

(さてと、休憩も程々に国語しますか)

 心の中で宣言して、集中を取り戻す。国語はまぁ得意な方。文章を読み進めていく。
 少しすると彼は目醒めた。でも声が掛けられなかった。彼が泣いていたから。
 でも彼は涙に気付いてないらしく、何かを思案し始めた。すぐに何かを思い付いたみたい。その時涙にも気付いたようで、目元をゴシゴシと拭いた。

「どうかしたの?」
「怖い夢でも見たの?」

 そんな言葉を掛けられれば良かったけど、私は私でいることにした。

「おはよぉー」

 いつものように間延びした話し方で。
 彼は少し驚きながら私を見た。

「おはよ。頑張るねぇ。まだ一日目だよ?」

 言われてみれば確かにそうかも。頑張り過ぎかな。でもなんだか楽しい。

「んーまぁね。でも最初の一週間で終わらせちゃえば後が楽でしょー? みんなそんなもんじゃないの?」

 見栄を張ってしまった。そんな秀才どこにいるのよ。予想通りかれは驚いているし。

「みんなではないね。少なくとも僕は違う」

 彼が信じ込んでいることが面白くて笑ってしまった。彼も不思議そうな顔をしながら笑ってくれた。
 笑いが止まるのを待って、宿題を片付ける。思ったより時間が経ってしまっている。少し急がないと。
 そろそろ教えてあげよう。鞄から花火パックを取り出して彼に見せる。

「さぁ花火するよっ! 車椅子乗って!」

 子供みたいに表情が明るくなった。
 彼はゆっくりと車椅子に乗る。まだ右足の感覚が戻っていないらしい。
 車椅子を押しながらエレベーターに乗り込む。勿論目指すは屋上。今頃みんなは屋台を楽しんでいるだろうなぁ。
 扉が開き、明るい光に照らされる。彼は凄く驚いているみたい。不思議そうな顔で私を見上げた。そんな彼に自信満々に笑ってみせた。
 そう、この夏祭りは私が企画したもの。街のみんなの為でもあったけど、私としては彼の為に考えた。屋台は簡単なものしか出来なかったけど。

 そうして彼と私の、最初で最後の夏祭りが幕を開けた。