禍津神の件から数日経った頃。
桐花はいつもどおり『花影』で女給として働いていたが、その心はいつもより浮き足立っていた。

実は、桐花にはとても嬉しいことがあった。
簡単に言ってしまえば、借金を大幅に減らすことができたのである。
その金の出処は、伊月小町が沙一に持ってきたあの依頼の報酬金だ。
依頼によって金額はかなり左右されるそうだが、今回は依頼人の羽振りがかなり良かったらしく、是非とも桐花に有効活用して欲しいと小町が持ってきたのだ。
桐花はいいと断ったが、小町から今回の件は桐花のおかげで解決できたものだから、と半ば根負けする形で受け取ったのだ。
普段の給金も、普通の女給としては少し多すぎるくらい貰っているのだから申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、最初に提案したのが他ならぬ沙一なので抗いきれなかったのもある。
不幸中の幸いとでも言った方がいいのだろう。
結果的にこうなったとはいえ、あの神様にであってよかったのかもしれない。
結局世の中巡り合わせで、幸も不幸もどちらにも転がれるのだ。

「桐花、そろそろ休憩にしよう」

「はい」

客が減り、店が閑散とした頃に休憩になる。
沙一に呼ばれカウンターの椅子に座ると、いつもの珈琲がすっと差し出された。
沙一が桐花に作ってくれる珈琲は、いつも砂糖とミルクが入っていて、甘さの中にほんのりとした苦味が感じられて好きだった。

また少しすれば、客が増える時間帯になる。
しっかり休んで休憩後もがんばろう。
そう、ゆっくりと穏やかな気持ちで珈琲を味わっていると。

「・・・・・・あの」

一旦、カップを置いて恐る恐る口を開く。
先程からずっと、沙一が桐花のことを見つめてくるのだ。

「そ、そんなに見られると恥ずかしいのですが・・・・・・」

「ん?そうか、それはすまなかった。気にしないでくれ」

気にするな、と言われてもなんとも形容しがたい温い視線がどうにもむず痒い。
再三繰り返すことになるが、沙一との距離が近くなればなるほど桐花は困ることになるのだ。

「あれから、体調は大丈夫か」

「はい。もうすっかり元気ですよ」

もう大丈夫だと言っているのに、沙一は桐花の体調をこまめに確認する。
心配してくれているのはありがたいが、もう幼子ではないのだからそんなに気にしなくても、と思ってしまう。

「何かあればいつでも祓うからな。これからは、迷わず俺の所へ来い」

「・・・・・・はい。お気持ちはありがたいのですが、今後はご迷惑をおかけするようなことにはしませんので」

「迷惑だと言った覚えはなかったが。何故、お前は誰かに頼ることをそうも拒む?」

「なぜって、それは・・・・・・その」

上手く言えなくて口ごもる。
色々な人に裏切られてきて、人間不信になりかけていたところもあるかもしれない。
だが、沙一に関しては例外中の例外だった。

(あなたのことを好になってしまいそうだから勘違いをしてしまいそうになる・・・・・・なんて、言えませんよ)

「その、・・・・・・他人に頼りすぎるのは良くないことですから。自分のことは、自分で頑張りませんと。それに、あまり頼ってばかりでは一人になった時に困りますから」

取り繕うようになってしまったが、この言葉は嘘ではない。
一人になってから、自分の無力さを嫌という程思い知らされたのだから、桐花にとって誰かに頼らず自分の力で生きていくのは大切なことだった。
しかしその程度で引き下がる沙一ではない。

「なら、他人相手じゃなければいいんだな」

「え?」

沙一の意図が読めなくて、桐花は困惑する。そんな桐花を見て、沙一は小さく笑った。

「俺が、桐花にとっての他人じゃなくて、特別になればいいんだろう」

「えっ、えっ」

徐々に沙一の顔が近づいてくる。
心を溶かす甘やかな声が、囁いてくる。

「好きだ」

一瞬、言葉の意味が理解できなくて桐花は固まってしまった。
それから、ゆっくりと沙一を指さしてから自分のことを指さす。
沙一は力強く頷いた。
少しの間、二人の間を静寂が包む。

「・・・・・・わ、私も」

意を決して震えながら口を開けば、満足気な顔で、いたずらっぽく笑っている沙一がいた。
その顔を見て、ようやく桐花は気がついた。

(もしかして、最初から全部・・・・・・)

顔が熱い。
きっと今自分は取り繕いようのないくらい赤面しているのだろう、と桐花は悟った。
嬉しいような、恥ずかしいような。
桐花にとって『これ』は初めて味わう感情だった。

「いつから好きでいてくださったんですか」

恐る恐るそう聞いてみると、沙一は優しく笑う。

「あの日、お前と再会した時からだ。懐かしい気配がすると思ったら、自分が昔作った護符を持っている人がいたんだからな。すぐにあの時の幼子だと気づいたが、加賀里家に起きたことは俺たちの界隈でも噂になっていたから、少々心配になって声をかけたんだ」

あの日、沙一が桐花に気づいたのはあの栞がきっかけだった。
運命の巡り合わせ、とは言い過ぎかもしれないが、桐花が栞をずっと大切に扱って来たことが今の未来に繋がっていた。

「昔の俺は不出来な弟子だったからな。あの頃の自分の努力が報われた気がして、嬉しかったんだ」

沙一が不出来だなんて桐花は思わないが、その声音は本当に嬉しかったということが分かるぐらい優しかった。

「それからしばらくして、俺はお前の事が愛しいのだと気づいた」

直球に愛しいと言われて、またも桐花は赤面する。
何故この人はこうも簡単に愛を囁けてしまうのだろうか。

「桐花」

「・・・・・・えっ、あ、え!?」

頬に手を添えられて、段々と沙一が顔を寄せてくる。
彼の長い睫毛が至近距離で見える。
綺麗な顔を前にして、もはや桐花は為す術などない。
破裂しそうな心臓の鼓動だけが桐花を支配する。

「さ、沙一さん・・・・・・」

その時のことだった。
静かだった室内に、ちりん、という呼び鈴の音が響く。

「真っ昼間から何してるんです、ふしだらですよ」

よりにもよってこの瞬間に客が来るとは、と思いきや現れたのは伊月小町だった。
じとぉっ、とした目で沙一のことを見ている。
桐花はきょとんとした顔をしてから、気がついたようにすぐに沙一から離れた。
まさかこんな時に来られるとは思わなかったが、そういえば初対面のときもこんなようなことがあった気がしなくもない。

「・・・・・・伊月」

沙一がいかにも悔しそうな顔をして頭を抱える。

「すみません、わざとじゃないんですよ。あとこれ、新しい依頼です」

小町は淡々と謝ると、なにやら書類の束を沙一に渡す。
普段の涼しい顔でカウンターに立っている姿からは想像できないくらいの、苦々しい顔で書類を受け取る沙一がどうにも面白くて。

「ふふっ、ふふふっ」

思わず桐花の口から笑い声が零れてしまった。
沙一も小町も驚いた顔をして桐花を見たが、堪えきれなくなったかのように小町も笑いだした。

「あははっ!」

瞬く間に店内が、可愛らしい二つの笑い声で埋め尽くされる。
桐花が笑いつつ、ちらりと沙一に目配せをすると、沙一も小さく笑ってくれた。
二ヶ月前、帝都の喧騒の中を死んだように歩いていた頃では想像できなかったぐらい、桐花は幸せを感じていた。

あの時、分からなかったこの気持ちの名前がようやく分かったような気がした。

そう。
きっと、この気持ちの名前は、愛だ。