「ただいま帰りました・・・・・・」

立て付けの悪い引き戸を開いて帰宅する。
当然、ただいまの声に返事をする人は誰もいない。

桐花の家は、帝都の外れにある。
沙一から下宿先を紹介するとの申し出もあったが、それは断らせてもらった。

かつての住所であった父が建てた文化住宅はとっくに売り払ったが、加賀里家が裕福になったのは桐花が産まれる少し前のことで、父が新しい家を建てている間までに住んでいた古い家がまだ残っているのだ。
父のことはともかく、共に過した年月は少なかったとはいえ、亡き母との思い出の詰まった家だ。
それに、帝都にあるとはいえ古い小さな家なので打ったところでたいした額にもならないことは分かっている。
新しい家を探すよりも、ここに住んでいた方が良いと判断した。

そんな桐花に対して沙一は、必要とあらばいつでも言ってくれ、とのことで。
沙一は隙あらば桐花を甘やかそうとするが、強制することは決してしなかった。
むしろ、桐花から言うのを待っているかのようにも感じられる。

(沙一さんは、どうしてあんなに私に優しいのでしょうか・・・・・・)

郵便受けに入っていた催促の通達を、今の机にぱさりと置く。
手を洗って、これから夕食の支度をしなければならないと厨へ向かおうとするが、気は進まない。
ここ数日は、食欲もあまり無かった。

こういう時はどうにも気分が沈みがちになる。
洗面台の鏡に映る自分は、なんとも情けない顔をしていた。

(ただの知り合いの娘に、仕事を紹介したり、なにかと面倒を見てくださったり・・・・・・。沙一さんは、本当に優しい方です。私はあの方に、一体何をお返しできるのでしょうか・・・・・・)

沙一のことは好きだ。
でもこの感情が、世間一般で言うところの恋情なのかは分からないし知りたくもない。
沙一が自分のことをそんな目で見ていないことははっきり分かっているのだから、例え本当に恋情だったとしてもそれは意味を成さない。
それに、結局、沙一が自分を拾った理由も判明していないのだ。
自分に利用価値があるとは、到底思えない。

『どうしたの、桐花ちゃん』

「​───────っ!」

俯いた瞬間、どこかからか声が聞こえてきて反射的に顔を上げる。
鏡に映っていたはずの自分が、袴姿のかわいい少女にすり変わっていた。
この少女には覚えがある。
女学校の友人だった人だ。
もちろん、学校は金が払えなくなってとっくにやめている。

『ねえどうしたの、桐花ちゃん。悲しいことがあったの?それなら、楽しいことを考えましょう。今日の放課後には先輩のお姉さま方と遊んでいただく予定でしょう。それに、今度の週末には、一緒にカフェーに行く約束をしてるじゃない』

鏡の中の彼女は優しい笑顔で語りかけてくる。
楽しいかった思い出が頭の中をめぐると同時に、背筋が段々と凍っていくのを感じた。
桐花はこの後に続く言葉を知っている。
もう嫌という程聞かされたからだ。

『桐花ちゃんには悲しい顔は似合わないよ。桐花ちゃんは優しくて、素敵な人で、本当に​───────無様な人ね』

咄嗟に耳を塞ぐ。
けれども声は、止まることなく桐花に語りかける。

「・・・・・・ッやめて」

『近寄らないで下さるかしら、加賀里さん。本当に卑しい人』

塵芥をみるかのような冷たい瞳で、鏡の中の彼女は桐花を見下している。
桐花は耐えきれず、絞り出すような掠れた声で謝り続けた。

「やめて・・・・・・もうやめてください」

しばらく蹲っていると、気配は消えていった。
でもまだどこかから気配は感じる。
よろよろと立ち上がり、厨へは行かずに寝室へ向かう。

(頭が痛い・・・・・・今日はもう何も出来そうにない)

布団を敷いて横になると、少しは楽になりそうだった。

眠りにつく前に、懐からいつも持ち歩いている手帳を取り出す。
手帳の中に挟まれていた栞を抜き取ると、その手に固く握りしめた。

この栞は桐花が幼い頃から持っているもので、桐の花が押し花にしてある。
父曰く、これは貰い物らしいが、誰から貰ったのかまでは教えて貰えなかった。
自分の名前と同じの、その桐の花の栞はずっとお気に入りで、大切にしているものだ。
これを持っていると、心が凪いでいくようで落ち着きたい時はこうしている。
桐花の目蓋がそっと閉じていった。